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芸術・文化

問い合わせ先

  • 小豆島町役場本館2階 社会教育課 電話:0879-82-7015

文化財・歴史的資源

小豆島町は、美しい自然とあたたかい人情と豊富な文化遺産に恵まれています。文化遺産を保存し、後世に伝えることは 現代に生きる私たちの責務です。先人たちのあゆみを訪ねてみませんか。

指定文化財

指定文化財地図

国指定文化財 県指定文化財
1.明王寺釈迦堂(みょうおうじしゃかどう)(重要文化財) 11.木造大日如来坐像(有形文化財)
2.木造伝池田八幡本地仏座像(もくぞうでんいけだはちまんほんじふつざぞう)(重要文化財) 12.木造二天立像(もくぞうにてんりゅうぞう)(有形文化財)
3.梵鐘(ぼんしょう)(重要文化財) 13.小豆島農村歌舞伎(無形民俗文化財)
4.池田の桟敷(重要有形民俗文化財) 14.安田おどり(無形民俗文化財)
5.中山農村歌舞伎舞台(重要有形民俗文化財) 15.老杉洞の日本ザル群(天然記念物)
6.誓願寺(せいがんじ)のソテツ(天然記念物) 16.福田八幡神社社叢(しゃそう)(天然記念物)
7.皇子神社社叢(おうじじんじゃしゃそう)(天然記念物) 17.内海八幡神社社叢(しゃそう)(天然記念物)
8.宝篋印塔(ほうきょういんとう)(重要美術品) 18.大坂城用残石 番屋七兵衛屋敷跡(史跡)
9.大坂城石垣石切丁場跡(史跡) 19.星ケ城(ほしがじょう)跡(史跡)
10.神懸山(かんかけやま)【寒霞渓(かんかけい)】(名勝)  

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明王寺釈迦堂
みょうおうじしゃかどう(重要文化財)

みょうおうじしゃかどう

この堂は、元は高宝寺といい、池田庄(郷)内11カ寺の諸法事を行う会座堂になっていました。大永2年(1522年)に地頭、須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことが、残っている「文字瓦」によってわかります。
堂は正面三間、奥行四間、単層入母屋造りの本瓦葺の建物で、内部は前一間が外陣(げじん)、奥三間が内陣で中央に高欄を巡らした禅宗様の須弥壇(しゅみだん)があり、その奥に精巧、優雅な彩色を施した彫刻で飾られた厨子があります。
これらの特徴から室町時代の典型的な建造物であるとして明治40年5月27日、国の重要文化財に指定されています。

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木造伝池田八幡本地仏座像
もくぞうでんいけだはちまんほんじふつざぞう(重要文化財)

もくぞうでんいけだはちまんほんじふつざぞう

この像は、亀山八幡宮の神体として祭られていましたが、明治初年の神仏分離により、長勝寺に移されたものです。首から上は仏様、下は神様の姿をしている「本地仏」は三尊からなり、いずれも檜の一本造りで、平安時代から信じられていた、仏が人々を救うために神の姿で現れるという「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」を具現化した全国的にも珍しい作例であるため、大正8年8月8日、国の重要文化財に指定されています。

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梵鐘
ぼんしょう(重要文化財)

ぼんしょう

この鐘は銅製で総高84.5センチ、口径48.3センチで鐘身は縦帯で4区、横線で3間に分かれ、建治元年(1275)の刻印があり、作者・勧進者・製作者が明示されています。
 西の滝の龍水寺のものでしたが、同寺が早くに無住となったため、兼帯していた長勝寺の収蔵庫に収められ、昭和41年6月11日、国の重要文化財に指定されています。

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池田桟敷
いけだのさじき(重要有形民俗文化財)

いけだのさじき

この桟敷は、現在も毎年10月16日に行われる亀山八幡宮の祭礼の見物席として利用されています。文化9年(1812)以前に構築されたと推定され、自然の地形を利用した石垣は、奥行き3メートル程の桟敷が8段、長さ80メートル、高さ18メートルにおよぶ壮大なもので、日本における野外観客席の一典型として昭和51年8月23日、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

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中山農村歌舞伎舞台(重要有形民俗文化財)

中山農村歌舞伎舞台

春日神社の境内にある中山農村歌舞伎舞台は、天保年間以前に琴平の旧金丸座を参考にして建築されたと伝えられています。建築様式は、茅葺き寄棟造りで舞台の間口6.5間、奥行4.5間、回り舞台、スッポンの機構があります。昔は、石臼を利用して牛に引かせて舞台を回していました。花道は、上演の際臨時に架設されることになっています。見物席は、南北23.94メートル、東西23.33メートルのゆるやかな斜面を利用して石積でしきられています。また、特別の屋根付きの桟敷もあります。
 衣装倉には衣装720点、かつら62点、大道具、小道具合わせて206点が収められています。歌舞伎台本類も600冊あまり保存されています。
 昭和62年3月3日、国の有形民俗文化財に指定されています。

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誓願寺のソテツ
せいがんじのそてつ(天然記念物)

せいがんじのそてつ

この樹は誓願寺の境内にあり、樹齢500年以上といわれ、株周り8.1メートル、樹高7.5メートルの雌樹で樹勢は現在も旺盛です。
 伝説によれば、元禄時代にこの地に回船業を営む塩屋金八なる人物が南九州方面から持ち帰り誓願寺に寄贈したものとされています。大正13年12月9日、国の天然記念物に指定されています。

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皇子神社社叢
おうじじんじゃしゃそう

神浦の海岸から北方に突出する標高60メートル、傾斜度約25度の円錐形の丘陵、権現岬全体からなり、昭和3年1月31日、国の天然記念物に指定されています。
 社叢の面積は約4,000坪で南部の1部を除けば全山ウバメガシで覆われ、その間にイブキ・ネズミモチ・ネズ・クロマツ・ヤマモモ等がまじり、中でもイブキは約400株をかぞえ、北側海岸近くでは枝葉入り乱れて林となり、わが国希有の自生地となっています。また、チョウジガマズミは朝鮮系の珍樹で本県には小豆島しかみられません。
 岬の西側は基盤の花崗岩を玄武岩が貫いて標式的円頂丘であることを物語り、地質学的にも重要なものです。

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宝篋印塔
ほうきょういんとう

ほうきょういんとう

西の滝の龍水寺本堂にある洞穴の中に安置された高さ1.2m余の石塔で、建武5年(1338)に建立され隅飾突起、反花座、各狭間ともに南北朝の様式(関西型)の特徴をよく表しています。
 昭和18年10月1日、国の重要美術品として認定され、いまは木造伝池田八幡本地仏座像、梵鐘とともに長勝寺の文化収蔵庫に収められています。

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大坂城石垣石切丁場跡(史跡)

大坂城石垣石切丁場跡(史跡)

岩谷の山中や海岸には、10センチ程度の矢孔や刻印のある石垣石や巨石が多数みられますが、これは大坂城を改築するために石垣用石を採取したときの残石です。岩谷には大きく分けて、南谷、天狗岩、豆腐岩、亀崎、八人石の五丁場があり、各丁場には石垣用石や種石、そげ石が混在し、総計1612個数えられます。
 この残石数は島内最高であり、島内最大の丁場であったと思われます。角取石には、○、□、tなど40種余りの刻印があり、現大坂城石垣石の刻印と同種のものも存在します。
 小豆島における大坂城用石垣石の採石については、秀吉時代に採石したという伝承もありますが、島内に残る古文書などにより、この岩谷の丁場は徳川秀忠、家光時代の大坂城改築時に筑前福岡城主黒田筑前守長政、忠之父子が採石したことが明らかで、幕末まで同家が石番を置いて管理していました。
>>大坂城用残石 番屋名七兵衛屋敷跡(史跡)

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神懸山【寒霞渓】(名勝)

神懸山

小豆島町の北部にそびえ、南の内海湾に面した星ヶ城連山の一つで、花こう岩を基盤に、古代、再三の火山活動によって噴出した安山岩、また堆積による集塊岩などで構成された山域です。
 奇岩絶景は風水蝕された集塊岩の姿であり、天下の三渓の一つとして有名です。中国南画を連想させる神秘的な奇岩奇石は一歩一景をなし、天下の絶景として春は新緑に花を敷き、夏は深緑に諸鳥の声、秋は紅葉、冬は雪氷とそれぞれ風趣があります。
 このような冠絶した自然景観について志賀重昂がその著『日本風景論』に「・・・・・楓樹は錦を渓谷に織り、島際の風煙染むに似、特に小豆島寒霞渓の如き、紅葉は花こう岩火山岩の表に繍錯し、其勝丹青も画く能はず、実に諸島に冠絶す。・・・・・」と述べています。

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木造大日如来坐像(有形文化財)

木造大日如来坐像

像高32.8センチの智拳印を結んだ金剛界の大日像で、檜材の全く内刳(うちぐり)のない膝前を寄せるだけの一木(いちぼく)造りの小像です。
 両手の上膊(じょうはく)まで共木で、わずかに両肘と手首を矧(は)ぐなど構造が古風であるように、像容にも古い作風が認められます。
 面奥も体奥も厚く、像形に重厚の風があり、眦(まなじり)のあがった両眼、瞼の間にしのぎがあり、両頬に張りがあります。
 唇が厚手であることも、すべて10世紀像の特色である。また細身に作る条帛(じょうはく)や膝前の衣文も古式であり、特に膝高を薄く作り、それに太めの衣文を刻むのは、9〜10世紀ごろ間々見受けられるものであることもこの像の特色です。恐らく10世紀末頃の作と考えられます。

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木造二天立像
もくぞうにてんりゅうぞう(有形文化財)

もくぞうにてんりゅうぞう

檜材の一木造りで、頭体部、邪鬼(じゃき)とも内刳(うちぐり)はなく肩と肘、手首を剥(は)いでいます。元は彩色像であったようですが、今は全く剥落(はくらく)しています。
 向かって右側に安置の多門天は、高さ92.5センチ右手を横に出し鉾(ほこ)をとり、左手は肘を曲げ腕を前に出しているが手首から先を欠失、宝塔を手に乗せていたものと思われます。右足は直立、左足は膝を曲げ邪鬼の頭を踏んでいます。
 向かって左側の持国天は高さ92センチ、顔を左に向け、右肩を上げ右腕を斜め後方に引き、五指を握り持物を持った形です。(持ち物は欠失)左肩は下げて、左腕を腹の前に置き、五指を伸ばし掌を下に向け、左足を左横に出し岩座の上に立っています。両像とも鎧を着け肩をいからせ、脛甲(けいこう)をまとい沓(くつ)をはいた姿です。

作はすこぶる粗豪ですが、11世紀末か12世紀ごろの地方作です。

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小豆島農村歌舞伎(無形民俗文化財)

小豆島農村歌舞伎

中山農村歌舞伎は江戸時代後期から明治・大正の隆盛期を経て、今日に至るまで春日神社の奉納芝居として上演が続けられています。10月第2日曜日、午後5時ころから、農村歌舞伎保存会によって、4〜5幕が上演されます。観客は「ワリゴウ弁当」を開き、酒を酌み交わし舞台の演技と一体になって夜の更けるまで見物します。

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安田おどり(無形民俗文化財)

安田おどり

江戸時代のかなり古いころから伝承し踊り続けられてきた踊りが、江戸時代末期に大阪より、この地に移り住んだ歌舞伎俳優嵐璃当によって、入り(入庭)、手踊り(素踊り)、中歌(置歌)、扇の手(扇踊り)、出(出庭)という形式に完成されていったものといわれています。
 手踊りと扇の手は、その各々が男踊りと女踊りにわかれ、輪踊りの形式で踊られます。
 男は白いハッピ、黒い帯、鉢巻でうちわを持ち、女はゆかた、市松模様の文庫帯で扇を持って踊り、はやしは三味線、太鼓です。
 昔は、旧盆の13、14、15日に踊っていましたが、今では8月14日に戦死者の追悼、新仏の供養の目的で踊っています。
 いずれにしても元禄時代の踊りの型をよく伝えた雅びたもので、近年では県下はもとより、全国的に知られるようになりました。

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老杉洞の日本ザル群(天然記念物)

老杉洞の日本ザル群

老杉洞は名勝、寒霞渓の表12景の一つで奇岩と紅葉が美しく、ロープウェイの紅雲亭駅より徒歩で約10分の所にあります。
 小豆島のニホンザル群は5つの群があって、老杉洞のニホンザル群はその中のK群と呼ばれていますが、銚子渓サル群(S群)の餌付が3か月余で成功したのに比し、本群は昭和31年1月から翌年4月まで1年4か月の長日月を要しました。
 当時の群構成頭数は約140頭で、ボスは8頭、年産子数は20頭くらいでしたが、昭和45年の調査では180頭でボス3頭であり、銚子渓群の300頭以上の増加に比し本群はわずか40頭しか増えていません。両群の棲息地の相違はあっても特異な現象です。
 研究者によりますと小豆島のサルは他の地方で研究されているサルと比較して気性が温和で美猿ぞろいであり、また社会行動の観察から“小豆島ザル”とでも言えるような性格を持っているといわれます。

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福田八幡神社社叢
ふくだはちまんじんじゃしゃそう(天然記念物)

ふくだはちまんじんじゃしゃそう

小豆島の社叢には、その優占樹種の上からウバメガシ型、シイ・クス型、アラカシ型のタイプがありますが、福田八幡神社社叢はこの中のシイ・クス型のもので、なだらかな丘陵地に成立する典型的な社叢です。暖温帯性の大樹による安定した林相をもち、組成の樹種の主なものは上層にツブラジイ、ウラジロガシ、ヒメユズリハ、イスノキ、イヌマキ、ウバメガシ、ムクノキなど、中層にはヤブツバキ、ネズミモチ、リンボク、クチナシなどです。林床植物は日射量が少ないので、あまり発達していません。
 大樹に恵まれている社叢ですが、中でもツブラジイは目通り幹囲4メートル、樹高25メートル、また胸高幹囲3メートルのウラジロガシ、胸高幹囲3.5メートルのウバメガシなどの豪壮な樹木が印象的で、小豆島北部の古い時代の林相がしのべる貴重な社叢です。

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内海八幡神社社叢
うちのみはちまんじんじゃしゃそう(天然記念物)

うちのみはちまんじんじゃしゃそう

内海町馬木の西方、内海湾に面した海岸の花崗岩丘陵上に発達した大変見事なウバメガシ型社叢です。
 社叢の主体はウバメガシであり、上層にわずかながらアベマキ、高木状のシャシャンボ、点在するクロマツが見られます。中層は低木状のネズミモチ、モッコク、シャシャンボ、クロガネモチ、イブキ、トベラなどの暖温帯性樹木からなっています。下層の樹木はあまり発達していませんが、草本層としては耐乾性シダであるヒトツバの発達が見事で、その密生ぶりは典型的なウバメガシ−ヒトツバ群落を構成し、生態学上極めて価値が高いもので、国指定天然記念物、皇子神社社叢に匹敵する貴重な存在です。

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大坂城用残石 番屋七兵衛屋敷跡(史跡)

大坂城用残石 番屋名七兵衛屋敷跡

江戸初期、徳川秀忠・家光による大坂城修築に際し、筑前黒田藩が岩谷から石垣用石を採石し、普請終了後同家の家臣七兵衛を残石監護のために派遣しました。七兵衛には二人扶持が与えられ、また岩ヶ谷年寄長町氏には一人扶持半が与えられました。
 七兵衛は岩谷に土着し、その子孫は明治維新まで残石監護にあたり、屋敷跡は「番屋敷」と呼ばれています。なお、岩谷丁場は維新後も工部省陸軍省の管理下におかれて民間の採石を禁止していましたが、明治15年から一般に開放されました。
 >>大坂城石垣石切丁場跡(史跡)

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星ケ城跡(史跡)

星ケ城跡(史跡)

星ヶ城跡は、小豆島最高の星ヶ城山(嶮岨山)にあります。この山は東峰(816.6メートル)と西峰(804.9メートル)が約1000メートル隔てて並んでおり、この西峰を本城、東峰を詰の城としています。その周囲は大型の断崖帯で取り囲まれ、天嶮の要害を利用した中世の山城です。本城の西峰には一の木戸(表面)、空壕、土壇、曲輪、居館跡、鍛冶場跡、土塁らしき遺構があり、東峰の詰の城にも天然の湧泉や人工井戸、土塁、居館跡、石塁、祭祀跡、舟形遺構とみられる多くの遺構があります。南北朝時代に備前児島半島飽浦の豪族佐々木信胤が小豆島に拠って南朝方に呼応しましたが、おそらくは彼が戦時の城としたものと考えられています。

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