町長の「八日目の蝉」記(平成23年1月分)

 「東日本大震災の被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げます。 亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。
 1日も早い復興を祈念します。
 小豆島でもできるだけのことをしたいと思っています。町立内海(うちのみ)病院では透析患者や妊婦の皆さんの入院を受け付けています。公営住宅や空き家の斡旋もしています。 子どもの皆さんに長期的に小豆島に滞在して、小豆島の小学校、中学校などで勉強できるようにしたいと考えています。
 小豆島には民間のホテル、旅館、公的な宿泊施設もたくさんありますので、ご利用していただきたいと思います。 これから必要な情報は小豆島町のホームページの冒頭で情報提供しますので、ご覧いただきたいと思います。」


  私は小豆島に生まれ育ちました。18歳のときこの島を離れ、40年ぶりに島に帰ってきました。島に帰ってから新しい発見の日々です。この島には、今私たちが失いつつあり、探し求めている何か、宝物がいっぱいあります。
 平成22年の3月と4月に、NHKが「八日目の蝉」というドラマを放映しました。小豆島が舞台のドラマです。また、今度映画化されることになりました。平成23年4月29日公開の全国ロードショーです。蝉の地上での命は普通7日です。ですから、8日目の蝉は、普通の蝉が見ることができないものを見ることができます。作者の角田光代さんは、原作で、小豆島のことを「海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」と表現しています。そして、主人公である若い女性に、おなかの中の子に、この景色を見せる義務が私にはあると、語らせています。
 そこで、私は小豆島の「きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」を、これから町長の日々の仕事を通して訪ねてみようと思います。

映画「八日目の蝉」パンフレット
映画「八日目の蝉」
2011年4月29日全国ロードショー
4月9・10日小豆島先行上映

映画「八日目の蝉」の撮影風景
映画「八日目の蝉」撮影風景
映画「八日目の蝉」撮影風景

映画「八日目の蝉」撮影風景
映画「八日目の蝉」撮影風景


(C)2011映画「八日目の蝉」製作委員会 2011年4月29日全国ロードショー
 

第132回 農と福祉の連携


 玉野市で開催された、「農福連携と地域間交流による地域活性化の可能性」をテーマとする障がい者就労推進研修会in玉野にパネラーとして参加しました。
 この研修会は、独立行政法人農研機構農村工学研究所が主催したもので、①農業における障害者雇用の推進②農業と福祉の連携③農業と福祉の連携等を基盤にした地域間交流・地域活性化を目指すものです。農水省経営局・二階堂女性・高齢者活動推進室長のほか、黒田玉野市長、ベネッセアートサイト直島の金代副代表などが参加しました。小豆島からも、ひまわりの家の岡さん、あすなろの家の唐橋さん、小豆島町、土庄町の担当者などが参加しました。
 私は、厚生労働省で障害福祉の仕事に深く関わったことがありますが、今回の研修会のテーマは、これからの小豆島を考える上で大事なことだと思っています。小豆島の障害福祉は、関係者の努力でそれなりのかたちを整えつつありますが、決して十分なものではありません。どのようにして、障害福祉をよくしていくかを考えたとき、農との連携がひとつの切り口になるように思います。そして、それは障害福祉にとっての意味だけにとどまらず、小豆島がこれから向かうべき方向にも関わっているのだと思っています。
 土庄町にある、ひまわりの家では、障害をもつ人たちがオリーブ栽培に取り組んでいます。地元の皆さんに寄付してもらった100本で始まったオリーブ栽培も、今では300本を超え、今年は初めて、ひまわりの家のブランドのエキストラ・バージン・オイルを販売できるまでになったと、岡さんは報告されていました。これからも木が増え、専門家のアドバイスを得られていけば、オリーブの分野でのココ・ファーム・ワイナリー(栃木県で障害者が栽培するぶどうで世界水準のワインが醸造されています)になるのも夢ではないかもしれません。
 昨年5月黒田玉野市長が、玉野市で知的障害者の施設の園長をされている浜川さんの案内で、小豆島を訪ねてこられました。玉野市と小豆島の連携を深めることで意見が一致しました。そのとき、中山の棚田を案内しながら、この棚田を守る営みに、お互いの障害者が参加できたらいいなと思いました。
 今年、その夢が地元の農家の皆さんなど、いろいろな人のご尽力で実現できることになりました。棚田での田植え、稲刈りなどの農業就労体験を障害者の方々にやっていただこうと思っています。この取組み(当日のシンポジウムの説明に使った資料です。初めに小豆島を紹介した写真が続きますが、最後に棚田での障害者の方々の農業就労体験の概要がのっています。)には、さまざまな意味が込められています。
 障害者の立場では、農業の場での新しい社会参加の機会になるでしょう。貴重な農業就労体験になるでしょう。すぐには無理でも、時間をかければ、ひまわりの家のオリーブ栽培のように、棚田でのお米つくりが、本格的な働く場になるかもしれません。
 棚田の保全の最大の課題は、担い手が高齢化し、後継者の確保が難しいことです。今年は、棚田を保全していくために何が必要か、具体策づくりに本格的に着手したいと思っています。障害者の方々の棚田での農業就労体験事業は、こうした取組みを象徴するものになるだろうと考えています。
 シンポジウムでは、農と福祉の連携は、農にとっては担い手不足をやわらげ、福祉にとっては障害者の就労、社会参加の機会となる、ウィン・ウィンの関係にとどまることなく、両者の連携、融合が化学反応を起こして、新たな可能性や好循環が始まるだろうということで意見が一致しました。玉野市では、遊休地での雑穀栽培を黒田市長の音頭で、障害者の皆さんが行っています。雑穀づくりは予想外に大変なようですが、思いがけない効果は、障害者が耕作している畑の近隣の畑でも草抜きがはじまり、セイダカアワダチソウが姿を消したそうです。農と福祉の連携によって、今まで気がつかなかったことに人々が気づいたのです。
 小豆島には、宝物がいっぱいあります。オリーブもそうだし、中山の棚田もそうです。その宝物を守り、磨くという、小豆島にとっての一丁目一番地の仕事に、障害者の皆さんが今年、取り組みます。今から、どんな新しいものが生まれるか、見つかるか、好循環が始まるのが楽しみです。どんな気づきがあるでしょうか。(平成23年1月31日)
障がい者就労推進研修会in玉野の様子
障がい者就労推進研修会
in玉野の様子

あすなろの家の皆さん
あすなろの家の皆さん

パネラーの皆さん
パネラーの皆さん

中山の棚田
中山の棚田

ひまわりの家でのオリーブ栽培の様子
ひまわりの家でのオリーブ栽培の様子

今では、300本を超えるオリーブを栽培しています<
今では、300本を超える
オリーブを栽培しています

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第131回 東京にて④佐渡ヶ嶽部屋訪問


 秋長小豆島町議会議長とともに千葉県松戸市の佐渡ヶ嶽部屋を訪問しました。小豆島出身の幕下の琴勇輝と序の口の琴乃島(琴西川から小豆島出身にちなんで琴乃島に改名したそうです)の二人を激励するためです。
 二人とも小豆島高校の出身者です。琴勇輝は1年生で中退して先に佐渡ヶ嶽部屋に入りました。高校での先輩の琴乃島は高校を卒業して、地元の醤油会社に入りますが、1月で辞め、琴勇輝の後を追って佐渡ヶ嶽部屋に入門します。
 琴勇輝については、このブログで、大相撲入門のエピソードを紹介しました。今日部屋のおかみさんに会って、入門の経緯を聞くと、そのとおり、卒業してから入門してほしいと思っていたら、次の日に入門したいと本人から電話があって驚いたそうです。
 琴乃島は、小豆島の土庄(とのしょう)町の出身です。子どものころから体格に恵まれていたので、田中先生のいた小豆島高校に進み相撲に励みました。お父さんは、地元の佃煮会社に勤めています。今度の私たちの訪問に際して、社長さんから自慢の佃煮をたっぷり佐渡ヶ嶽部屋に贈っていただきました。部屋の力士のみなさんにも好評と聞きました。みんなで小豆島の佃煮をたっぷり食べて強い力士になってもらいたいものです。
 琴勇輝と琴乃島は二人とも小豆島が大好きですが、タイプが随分違います。琴勇輝はファイトが外に出ていますが、琴乃島はファイトを内に秘めるタイプです。二人とも今場所は勝ち越し、来場所以降の活躍が楽しみです。
 ところで佐渡ヶ嶽部屋の力士の名前にはみんな「琴」がついています。現役力士なら大関琴欧洲、関脇琴奨菊というように。その意味を今日はじめておかみさんに教えてもらいました。それは、香川県の琴平宮にちなんでいるのだそうです。佐渡ヶ嶽部屋と琴平宮は深い関係をずっと保っているのだそうです。その意味で、香川県出身の二人が佐渡ヶ嶽部屋に入門し、お世話になっていることには深い意味があるのだと感じました。何事も、なるほど、なるほど、ということが続くのは、きっと、これからいいことが待っているだと思います。琴勇輝、琴乃島頑張れ。負けるな。夢はきっと叶う。小豆島のみんなが応援してる。(平成23年1月27日)
琴勇輝(写真右)と琴乃島
琴勇輝(写真右)と琴乃島

稽古場の土俵
稽古場の土俵

力士の名前にはみんな「琴」がついています
力士の名前にはみんな「琴」がついています

佐渡ヶ嶽部屋の前で秋長議長、琴勇輝・琴乃島と
佐渡ヶ嶽部屋の前で秋長議長、
琴勇輝・琴乃島と

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第130回 東京にて③長尾日大医学部教授訪問


 秋長小豆島町議会議長とともに駿河台日本大学病院循環器科部長の長尾建先生を訪問しました。長尾先生に小豆島の医療の現状などをお話しました。
 長尾先生は、小豆島高校を卒業された後、日本大学に学ばれ、現在は日本大学医学部内科学系循環器内科学分野教授をされています。小豆島で長く医院されていた長尾四郎先生のご長男です。小豆島町立内海(うちのみ)病院の初代院長の頓宮寛先生のお孫さんにあたります。弟のお二人も小豆島高校を卒業されて、島の外で医者をされています。
 長尾先生は、卒業後一貫して救急医療に携わっておられるそうです。東京のど真ん中中のど真ん中の中核病院での救急医療ですから、さぞかし大変な医師としての人生だったと思います。ご祖父にあたる頓宮先生の人生にもつながるものを感じます。その苦労の背中をみて、ご子息が医療以外の道に進まれたことも話していただきました。
 ところで小豆島高校を卒業して医師として活躍しておられる方が17名おられます。高松高校などを卒業された小豆島出身者の方が9名おられます。みなさんそれぞれの立場で全国各地で活躍されています。したがって、小豆島に戻って、島の医療にすぐ貢献していただけるほど、物事は簡単ではありません。仮に、戻られなくても、いろいろな形での貢献していただくことができます。極端に言えば、こういう方々がおられることを知るだけで私には安心感を少し感じます。
 問題は、こうした方々との連絡を地元の役場としてとってこなかったことにあります。私は、たまたま行政と関係の深い中央省庁に勤務していましたので、ふるさととの連絡が密にありました。そのことがふるさとに戻るきっかけにつながりました。これから、島の外で活躍する医師の皆さんのご意見をうかがう機会を増やし、連絡を密にしていこうと考えています。(平成23年1月27日)
駿河台日本大学病院
駿河台日本大学病院

頓宮寛先生
頓宮寛先生

内海病院
内海病院

地域医療スピリットin小豆島
昨年8月に開催された
「地域医療スピリットin小豆島」

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第129回 東京にて②「レ・クレアシヨン・ナリサワ」


 夜、カサイホールディング(株)の笠井寛さんと南青山の「レ・クレアシヨン・ナリサワ」にうかがい、夕食をともにしました。このレストランのシェフである成澤由浩さんとは昨年10月、小豆島のオリーブ公園のオリーブ畑で偶然お会いしました。
 「レ・クレアシヨン・ナリサワ」は世界の名店50に数えられるくらいのレストランです。フランス料理でもなく、日本料理でもない、NARISAWAの料理として、今、世界から注目されています。
 19歳で渡仏、以降8年間をヨーロッパの著名なシェフのもとで過ごし、帰国後、オーナーシェフとしてお店を開き、今日に至っています。成澤さんは、料理を通して、日本の四季と自然を再現、表現しようとされています。それだけに食材を選ぶ眼は誰よりも厳しいものがあります。直接、現地に行って、生産者と安心と信頼を約束した上で直接取引を交わされるのを基本にされています。
 今晩のディナーは、「森とともに生きる」というテーマのものでした。真っ黒に焼き上げた野菜の炭によって、素材の未知の魅力を生み出そうとするものです。ひとつひとつの料理が独創性に満ちていて、お皿が出されるたび、驚きの連続です。炭には森の神秘が凝縮しています。炭には食材の新しい命を育む力があるようです。
 成澤さんの厳しい素材選びのひとつに小豆島のオリーブ油を選んでいただいたことを嬉しく思います。外国のお客さまからも、日本にこんないいオリーブ油があるのかと言っていただいているとのことでした。オリーブ畑でお子さんとご一緒だった奥様からも小豆島滞在は楽しかったと言っていただきました。こんなに名誉なディナーは生まれて初めてのことでした。(平成23年1月26日)
オリーブ公園のオリーブ畑
オリーブ公園のオリーブ畑

料理に注がれる小豆島のオリーブ油
料理に注がれる小豆島のオリーブ油

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第128回 東京にて①東京大学平地教授訪問


 今年初めての上京です。今回の日程も多彩です。報告をかねて順番に紹介していきます。
 まず東京大学を秋長小豆島町議会議長と訪ねました。東大に小豆島高校卒業の教授がいることをつい最近知りました。それも大学院の数学の教授。かつて東京大学には、小豆島高校を卒業された大先輩森口繁一教授がおられました。森口先生は、NHKではじめてコンピューター講座をされ、統計学協会の会長も務めるなど、数学の大家でした。それ以来の数学の教授、2人目の東大教授の誕生です。快挙です。しかも46歳。同じ高校の卒業生として誇るべきことです。
 教授の名前は平地健吾さん。研究分野は、例えば「ベルグマン核及びセゲー核の特異性とCR幾何学との研究」。アメリカ数学会ベルグマン賞など、内外のさまざまな賞を受賞されています。
 平地教授を、いったいどんな人かと先生の部屋を訪ねると、おだやか、にこやかな表情で迎えてくれました。「数学はいったい何の役にたっていますか」と尋ねると、「数学者は何に役立つかを考えて研究していません。私はアインシュタインの理論を検証し、深めていますが、あえて何の役に立つと言えば、ビックバンから始まった宇宙がどこに向かうかは、数学で解明できるかもしれません」という趣旨の返事でした。
 平地教授のお母さんは小豆島におられて、ときどき帰省されているそうです。平地教授もふるさとを愛されています。高校時代、目立たぬ静かな生徒だったそうですが、大阪大学を卒業され、いつのまにか、人知れず才能を開花されました。小豆島高校の後輩たちには、こうした先輩がいることを忘れず、自信をもって頑張ってほしいと思います。平地教授は、母校での講演を約束してくれました。和やかに談笑している途中にお子さんから電話が入ってきました。平地教授は、二人のお子さんの子煩悩なお父さんです。(平成23年1月26日)
東京大学
東京大学

平地健吾教授
平地健吾教授

故森口繁一さん
故森口繁一さん

平地教授からいただいた論文
平地教授からいただいた論文

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第127回 トイレ掃除


 日本を美しくする会・掃除に学ぶ会が進めている「トイレ掃除」が池田小学校でありました。小豆島掃除に学ぶ会・香川掃除に学ぶ会の例会として行われ、地元の小中学生、教職員なども参加して、県内外の会員と一緒に、池田小学校のトイレ掃除をしました。
 この運動は自動車用品販売会社を経営する鍵山秀三郎さんが「掃除を通じて、世の中から心の荒みをなくしていきたい」との思いで始めたものです。もし日本中の人々が毎朝一斉に掃除をしたなら、この国の未来はきっと素晴らしいものになる、日本人が培ってきた美徳を、掃除を通して取り戻そうとする国民運動です。
 日本を美しくする会の活動は、学校や公共施設のトイレを借りて、掃除実習をすることです。トイレ掃除を通して心も磨かれます。もうひとつ、地域住民や地元 商店街の人々と街中や駅周辺の街頭掃除を定期的に実施しています。街頭掃除を通して社会の荒みをなくすことを目指しています。
 池田小学校のトイレは色が染み付いて、汚れていました。それを見た途端、とてもおちるものでないと思いました。まずはスポンジで水洗い。これで大きな汚れをおとします。次に、洗剤をつけて、サンドペーパーでひたすらごしごしと磨きます。時間にして1時間。絶対におちないと思っていた汚れが少しずつおちていくと夢中になってくるから不思議です。
 このトイレ掃除の運動について、道徳の強要だとか、いろいろな意見もあるようですが、実際にトイレ掃除に参加してみて、物事は素直に受けとめるのが一番だと思いました。私自身、いろいろな発見、学びができました。地道なことをこつこつと粘り強く取り組み続けることの大切さ、一所懸命汗を流したあとのさわやかさ、あれこれ工夫したり、知恵を絞ることの意味、大勢の人が力をあわせることの喜びなどです。トイレ掃除を始めて2時間。あんなに汚れていた池田小学校のトイレがみんなの力ですべてぴかぴかになりました。
 トイレ掃除をやってみて、まちづくりに合い通じるものがあると思いました。人口が減って、じわりじわりと力が弱くなっているこの島をどうしたら、人口減を少しでも緩やかに、元気にできるか。こつこつと、みんなで力をあわせて、あきらめず、粘り強く、地道な努力をする、その成果が少しでも見えることができるようになれば、その地道な努力を人々は続けることができる、そして、気がついたときには、見違えるような成果が得られるだろう、そう思います。
 トイレ掃除は、

1.謙虚な人になれる 
2.気づく人になれる 
3.感動の心を育む 
4.感謝の心が芽生える 
5.心を磨くことを目指しています。

トイレ掃除に限らず、人として大事なことを大切にしていきたいものです。(平成23年1月24日)

全日本小学校ホームページ大賞の県代表に2年連続で選ばれた池田小学校のホームページ
たくさんの人が集まりました
たくさんの人が集まりました

熱心に掃除に取り組む参加者
熱心に掃除に取り組む参加者

池田小学校の様々な行事
海洋教室の様子
海洋教室の様子

「じんけんフェスタ2010」で人権劇を演じる様子
「じんけんフェスタ2010」で
人権劇を演じる様子

こどもセンター・池小・池中合同運動会の様子
こどもセンター・池小・池中合同運動会の様子

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第126回 琴勇輝


 琴勇輝という力士を知っていますか。琴勇輝は小豆島出身の幕下力士です。初場所の番付は東幕下45枚目。昨日終わった初場所の成績は5勝2敗。千秋楽に負けたときの悔しそうな表情。この根性が琴勇輝の魅力です。来場所は幕下上位へ、いよいよ関取に向けて始動です。
 琴勇輝は、小豆島の内海(うちのみ)中学校を卒業して、小豆島高校を1年生で退学、佐渡ヶ嶽部屋に入門します。平成20年2月のことです。まだ19歳。体も身長176センチ、体重124キロまでになりました。筋肉質で押し相撲。きりっとした顔立ちは相撲取りとしての大きな可能性を感じさせます。
 琴勇輝の名前は聞いていましたが、郷土出身だから頑張ってほしいとくらいに思っていました。しかし、彼のことを関係者から聞き、テレビで勇姿を見て、琴勇輝のことを、大勢の人に知ってもらい、今後の飛躍を大勢の人とともに応援しなければと思っています。そして、勇気をもらっている琴勇輝に感謝し、彼に負けず、ふるさと小豆島を元気にしなければと思っています。
 琴勇輝が生まれ育ったのは香川県丸亀市です。丸亀は相撲の盛んなところ、琴勇輝は小学生のころから自然と相撲を始め、小4のとき香川県代表としてひとり全国わんぱく相撲大会に出場します。もうそのころには大相撲の力士になると決めていたといいます。
 中学生になり、親元をひとり離れ、小豆島の内海中学校に来ます。相撲の名門の明大中野へ進学との話がありましたが、内海中学校に進学します。 それは、ずっと稽古をつけてくれていた田中栄一郎先生が、小豆島高校に赴任されていたからです。田中先生は日大相撲部の出身。国体強化選手として香川県に赴任されていました。
 琴勇輝は田中先生の指導でぐんぐん実力をつけていきます。中学時代にエピソードを残しています。彼は、3年生のとき生徒会長になっています。相撲だけでなく勉学も優秀でした。当時、内海中学校はとても荒れた学校でした。生徒の暴力沙汰も何度も起きていました。そのなかで琴勇輝は凛とした存在であり、荒れた悪がきたちも、彼の前では静かだったと聞きます。テレビの琴勇輝の顔立ちを見ながら、なんとなく西郷隆盛が、幕末の志士らの前に凛と立ちはだかっている、そんな光景が思い浮かびます。
 小豆島高校に進学した彼は、1年生の年末、お母さんとともに、佐渡ヶ嶽部屋の見学に行きます。大相撲入りは高校を出てからと、みんなが思っていたのですが、帰りの新幹線のなかで、彼は、高校を辞めて佐渡ヶ嶽部屋に入門すると、 お母さんに突然決意を伝えます。お母さんは大変驚きましたが、大相撲の力士になることは子どものころからの琴勇輝の夢でした。決意に何の迷いもありませんでした。
 入門してからの琴勇輝は決して順風満帆とは言えません。しかし、体も出来上がり、押しと攻めに徹底した相撲ぶりを見ると、一気に駆け上るときがきたように感じます。ある人は、琴勇輝は元横綱千代の富士に似ていると評します。千代の富士は、相撲取りとしては小柄で伸び悩んでいま したが、強くなりだすと一気に力をつけました。
 嬉しいのは、琴勇輝が、中学校と高校の1年しか過ごしていない小豆島を出身地としてくれていることです。小豆島にとって、これほど嬉しく て、勇気づけてくれることはありません。たった4年間の小豆島ですが、「みんなに大層よくしてもらって小豆島が大変気にいっている、小豆島に恩返しを したいという気持ちから」と、お母さんがおっしゃっています。
 私は、今週の木曜日27日に佐渡ヶ嶽部屋に琴勇輝を訪ねます。とても楽しみです。島を代表して、琴勇輝にお礼を言い、激励してきます。琴勇輝頑張れ。 大きな夢を正夢に。君ならきっとできる。(平成23年1月24日)
佐渡ヶ嶽部屋宿舎前での琴勇輝
佐渡ヶ嶽部屋宿舎前での琴勇輝

練習風景
練習風景

親方とのツーショット
親方とのツーショット

全国中学校相撲選手権での写真
全国中学校相撲選手権での写真

全国中学校相撲選手権厳しい表情で試合に臨む琴勇輝
全国中学校相撲選手権
厳しい表情で試合に臨む琴勇輝

小豆島高校での琴勇輝
小豆島高校での琴勇輝

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第125回 江田島とオリーブ


 広島県江田島市の田中市長、上田市議会議長、議員のみなさんが小豆島に来られました。小豆島のオリーブへの取組みの視察です。江田島でもこれからオリーブ栽培に取り組まれるそうです。
 江田島は、呉市の沖合にあって、何といっても海軍兵学校があったことで有名です。小豆島より少し小さい大きさの島、もちろん風光明媚な島だとお聞きしています。今は、呉市と橋で結ばれているそうです。
  江田島でも少子高齢化と人口減が続いています。みかん栽培が盛んなところですが、価格の低迷、後継者不足で耕作放棄地が増えています。そこで、眼をつけたのがオリーブ栽培です。小豆島と気候も似ている島であり、オリーブなら退職後も元気なうちは栽培可能だろうと考えられたそうです。そこで、まずは現状と課題を把握するため、市長さんを先頭に小豆島へ視察研修に来られたのです。田中市長とは、昨年10月に小豆島で開催した「瀬戸内海の復権」の意見交換会にも出席していただき、意気投合していましたので、久しぶりの再会でした。
 実は、このごろ全国各地の自治体関係者の小豆島オリーブ視察が相次いでいます。今年度だけでも12自治体、104名の方々が視察に来られています。発酵食品研究所、農事試験場、オリーブ関連企業などにもたくさんの関係者の訪問があるそうです。このこと自体、小豆島やオリーブの認知度、オリーブの産業、市場としての期待が高まっていることを示すもので嬉しいことです。
 一方で、小豆島のオリーブ関係者は、心しなければなりません。これからは、国内において、小豆島はオンリーワンではなくなる、ライバルとなる地域が増えるのです。のんびりしていると追い越されます。オンリーワンからトップワンへ、これをキーワードに小豆島の関係者による、小豆島オリーブトップワン・プロジェクトが、香川県の応援も得て、立ち上がっています。
 小豆島のオリーブがトップワンであるためには、オリーブの栽培技術と加工技術がどこよりも優れていることが、何よりも基本であると思います。そのための研究・技術開発、そのノウハウの共有、すぐれた品質の保証の仕組みが不可欠です。他の地域での栽培が拡大するまでにこれらを確立することが求められています。オリーブトップワン・プロジェクトの核心的なテーマです。
 オリーブは、小豆島のイメージを高めてくれました。多くの方の努力で、島の各地でオリーブの木を見ることができるようになりました。それでも、島を訪れた人が、例えば港に着いた途端、これがオリーブだ、小豆島にやってきたのだと思わせる、象徴的なオリーブの木があればもっと感動を呼ぶのではないでしょうか。オリーブの島としてのイメージアップの努力はまだまだ必要だと感じています。
 オリーブを使った食品、料理の開発、オリーブの健康、美容などへの効果の分析、普及、オリーブの葉くずなどの飼料、肥料としての活用など、オリーブはまだまだ発展の可能性にあふれています。だからいろいろな自治体、企業も関心を示しているのです。そういうなかで、トップワンとして負けるわけにはいきません。のんびりしていてはいけません。切磋琢磨が求められています。(平成23年1月19日)
江田島市 海上自衛隊第1術科学校(元海軍兵学校)
江田島市 海上自衛隊第1術科学校
(元海軍兵学校)

江田島の風景
江田島の風景

視察の様子
視察の様子

江田島市長をはじめ20名の方が視察に来られました
江田島市長をはじめ20名の方
が視察に来られました

小豆島オリーブトップワン・プロジェクト
小豆島オリーブトップワン・プロジェクト

小豆島のオリーブ
小豆島のオリーブ

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第124回 阪神大震災護摩供養


 16年前の今日阪神大震災が起こりました。6,434名の方々の命が失われました。小豆島八十八か所霊場のひとつ西の滝龍水寺で護摩供養が営まれました。
 西の滝は、このブログでも何度か紹介していますが、池田地区の小高い山の頂にあります。この寺から観る瀬戸内海の景色は、これに優るものはないと言っていいほどのものです。私は、この寺の存在を40年ぶりに戻った去年初めて知りました。小豆島といっても広くて、子どものころは峠をこえた隣まちのお寺に行くことなどなかったのです。今では、何かあると、この寺を訪れては、波静かな瀬戸の海を見ながら、念ずることにしています。
 この寺の住職の小林重幸さんは、阪神大震災の被災者です。当時は、西宮市に住み、酒造会社に勤めておられました。退職後、おじいさんと縁のあったこの寺の住職になることを頼まれ、それから高野山で修行を積まれたのだそうです。
 小林さんは、阪神大震災を振り返り、震災への備えがもっとあれば6千名を超える命が失われることはなかったのではないかと言われています。阪神大震災のとき、私は、厚生省で公衆浴場を担当する課長をしており、震災後、何度も神戸を訪れました。地元の自治体だけでなく、東京の中央省庁も不眠不休で対応に追われました。今は、町長として、小林さんの言葉を重く受け止めなければとあらためて思います。
 小林さんは、西の滝を人一倍愛しています。西の滝から見る景色には魂が洗われます。魂を癒してくれる美しさが、西の滝からの景色、瀬戸内海の多島美にはあると小林さんは言われています。
 今朝、護摩供養のあとで見た、まだ朝明けやらぬ瀬戸の海の景色は、どこにもないもので、魂の世界を垣間見るようでした。大勢の方に、この西の滝、小豆島を訪れていただきたいと思います。(平成23年1月17日)
護摩供養の様子
護摩供養の様子

西の滝から瀬戸内海を望む
西の滝から瀬戸内海を望む

西の滝から見る朝焼け
西の滝から見る朝焼け

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第123回 田舎で働き隊オリーブワーキングチーム


 農林水産省が進めている「田舎で働き隊事業」の小豆島版「田舎で働き隊オリーブワーキングチーム」に参加される皆さんが来島しました。
 この事業は、都会で農山漁村に行きたい人と人材を求める農山漁村を結ぶ事業です。農山漁村での活動を希望する都会に住む人たちが、数ヶ月農山漁村で農業体験、農産物加工、直販などの実践研修などを行うものです。
 小豆島でも昨年度15名の若者がこのプログラムに参加、オリーブの生産、オリーブ加工会社での仕事研修、観光研修、島への移住研修、地元住民との交流などを行い、その結果3名の方が地元企業に正式に採用され、島に移住しました。今年度も第一弾として9名の方が来島しました。私は、早速、メンバーが宿泊している寒霞渓(かんかけい)のふもとにあるペンション「ホワイトホース」を訪ねて、懇談してきました。
 メンバーは、20代から40代、最年少の方が22歳、最年長の方が48歳、男性8名、女性1名です。現住所も北は埼玉から南は福岡までいろいろです。経歴も電器メーカーのデザイナーから次の生き方を目指す人、一流大学を出ているが縁のある小豆島でのオリーブ農業ビジネスを目指す人、瀬戸内海の島での人間らしい生き方を模索する人など、さまざまです。このペンションで2月間共同生活をしながら小豆島のオリーブ農家、オリーブ加工会社、醤油会社などで実地の体験、研修に挑まれます。
 皆さんにお会いし、お話を聞きながら、何としても、この方々の期待に小豆島が応えなければと思いました。というのも日本の農山漁村の例にもれず、小豆島でも後継者難、人口の減少、少子高齢化に苦しんでいるからです。小豆島が新しい魅力を見つけ、その魅力を高めていくためには、外の力、新しい息吹と発想が不可欠だと思うからです。
 小豆島は、これまで比較的恵まれた環境にあったと思います。それは何よりも、これまでは島ということが、海の時代、海運の時代に有利な条件であった上に、進取の気概に満ちた先達がいっぱいいて、いろいろな産業、観光、文化を外からも吸収し、発展させることができました。醤油も、そうめんも、オリーブも、農村歌舞伎も、みんなその成果です。しかし、これからも小豆島はほっといても大丈夫かというと全く逆だと思います。
 車の時代、離島であることは経済面では大変なハンデになっています。進取の気概もどうもそれほど感じられなくなってきているように思います。このままでは、先達たちの残した財産を我々の世代で食いつくしてしまいかねません。もう一度、島の内外の小豆島を好きな人、愛する人の力をあわせて、小豆島の良さを守り、磨かなければなりません。新しい突き抜ける何かが必要です。小豆島に来られた「田舎で働き隊オリーブワーキングチーム」のメンバーの皆さんとも、ともに考え、行動していきたいものです。 (平成23年1月17日)
「田舎で働き隊オリーブワーキングチーム」の皆さん
「田舎で働き隊オリーブワーキングチーム」
に参加される皆さん

さまざまな出身・経歴の方が参加されます
さまざまな出身・経歴の方が参加されます

平成21年度の様子
発足式の様子
発足式の様子

オリーブ講習
オリーブ講習

オリーブ手作り石鹸ワークショップ
オリーブ手作り石鹸ワークショップ

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第122回 田中河内介


 町長になって初めて知ることが少なくありません。田中河内介(かわちのすけ)の墓と記念碑が小豆島の福田地区にあることもそのひとつです。
 田中河内介という幕末の尊王志士の名前を聞くのも初めてでした。その悲劇の志士は、漂着した小豆島の人々によって手厚く祀られています。小豆島の人々の今も続く心優しさ、人情の深さにも驚かされます。
 田中河内介は、文化12年(1815年)但馬国香住(兵庫県豊岡市)に生まれ、長じて明治天皇の養育御用掛となり、最後は尊王攘夷急進派として非業の死をとげます。公武合体派である薩摩藩は、寺田屋に集まる尊攘急進派を急襲、弾圧します。田中河内介父子ほか3名が、首謀として責任を問われ、大阪から薩摩への護送途中、播磨灘で殺害、海上に投棄されます。その死体は小豆島の福田に漂着します。明治維新まで余すところ5年、文久2年(1862年)のことです。
 幕末の維新回天の華々しい舞台には幾多の志士が登場しますが、田中河内介の名前を聞くことはありません。しかし、華々しい舞台ができたのも、田中河内介のように、その基礎と機運をつくりながらも、悲運のなかに散っていった無名の志士の存在があったからです。田中河内介は、明治天皇の養育掛として明治天皇の人間形成に大きな役割を担い、明治天皇に最も慕われた男と言われています。
 維新後まもない宮城内で開かれた無礼講の席で、天皇が「田中河内介はどうなった」とお聞きしたそうです。天皇の御質問は、「この宴席に、田中河内介がおったならば満足であるが、これを殺したものは誰であろう」という極めて率直なものであったといいます。この言葉に感動した元同志が、同席の大久保利通を指して「田中河内介を殺したものは、この大久保でござる」と明言したところ、天皇は深い悲しみに沈まれ、この席に河内介がいれば、どんなに愉快だったろうとおっしゃったそうです。
 さて、本題は、福田に漂着した田中河内介らの遺体に対してとった小豆島の人々の心遣い、手厚い態度です。かなりの身分の父子と想像できても、遺体の主が勤皇の名士であり、幼少の明治天皇をおぶいつづけ、天皇としての生き方、孝経を教えた人物だとは夢想だにしなかったことでしょう。田中父子の遺体は住民の手によって手厚く福田遠手浜墓地に埋葬され、消息は30年間不明のままでした。明治25年に来島した関係者により田中河内介父子であることが判明、墓碑が建てられます。明治32年には「田中河内介父子哀悼之碑」を建立。明治45年には殉難50周年記念法要を行い、昭和36年には墓碑を百回忌を機に雲海寺に移転。平成9年哀悼碑を遠千浜へ移し、田中河内介父子の慰霊と顕彰は今も田中河内介顕彰会の皆さんの手によって変わりなく続けられています。
 ところで、小豆島は瀬戸内海での位置から多くの方々の死に関わっています。瀬戸の海で自ら命を絶った詩人生田春月、藩への帰途遭難した小倉新田藩主小笠原真方などです。それらの方々は、今も島の人々によって手厚く弔われています。島の人々のやさしい心遣いを誇りに思います。
 今年は、田中河内介が亡くなって150年になります。田中河内介顕彰会では、この5月に150年忌法要、哀悼碑の移転整備、膨大な遺品の整理保管、展示などを予定しています。先日、雲海寺に保管されている手紙などを山本住職に見せていただきました。あらためて田中河内介の深い知性に触れることができました。こうして今も田中河内介父子への心遣いを続ける、この島の人情の厚さに島の力を感じます。(平成23年1月17日)
 雲海寺から遠手浜を望む
雲海寺から遠手浜を望む

田中河内介父子の墓
田中河内介父子の墓

哀悼之碑
哀悼之碑

田中河内介肖像画
田中河内介肖像画

田中河内介遺品の数々
田中河内介遺品の数々

田中河内介に関わる著書の数々
田中河内介に関わる著書の数々

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第121回 手延べそうめん


 小豆島は全国でも有力な手延べそうめんの産地です。そうめんづくりはおよそ400年前に伊勢参りの帰りに、奈良の三輪そうめんの技術が島に伝えられたようです。
 そうめんづくりは、島の池田地区、中山地区などで盛んに行われています。そうめんづくりの適地は、冬寒く、天気の日が多くて、空気が乾燥しているところです。そして、何よりも寒い冬の日早朝から日が暮れる夕方までの、長くて、きつい労働に耐えられる根気と手の器用さなど、人間の力も求められるように思います。そうめんづくりは、どこでもかしこでもできるのではなく、選ばれた地域だけが行える日本の伝統産業であり、伝統文化です。
 私は、小豆島のなかでも、醤油や佃煮づくりの盛んな地域に生まれ育ったので、池田地区、中山地区のような、そうめんづくりの盛んなところに、ある種畏敬の念を感じています。ちょうど今頃、そうめんづくりは、「寒そうめん」といって、コシが強くて、味のよいそうめんができる時期にあたっています。そこで、中山地区で、長年そうめんづくりをしている中畑さん親子を訪ねて、苦労話を聞いてきました。
 一番の課題は、仕事のきつさ、嫁のきてがいないなどで、後継者がおらず廃業するところが多いことです。早朝3時、気温2度くらいのときから始まり、屋外で扇風機の風に当たりながら、箸わけ作業などを行います。中山地区でもかつては25軒そうめん屋がありましたが、今は11軒になっています。幸い、中畑さんの家では40代前半の2代目のあとも、今年高校卒業の長男さんが家業を継ぐと言ってくれているようです。売上げも全国的な競争が厳しく、出荷量を増やすのはなかなか難しいようです。
 ところで中山といえば、千枚田、そして農村歌舞伎です。農村歌舞伎は、農作業の暇をぬって練習を繰り返し、上方の本物の歌舞伎にひけをとらないくらい本格的なものです。この農村歌舞伎は、農家とそうめん屋さんが支えています。二代目の中畑さんもそうめんづくりのかたわら農村歌舞伎にかかわっています。小学生のころ役者としても参加しましたが、今は役者の顔を描く裏方をされているそうです。
  ところで、このブログで消防団のことを書きました。地域住民の自主組織である消防団があることで、地域の安全が守られています。そうめんづくりは、前日に次の日の仕込みをします。冬のそうめんづくりは、一晩寝かせて、次の日、「小引き(こびき)」や「箸分け(はしわけ)」という工程を経て、「門干し(かどほし)」をします。2日がかりで寒そうめんが出来上がるのです。冬の日光と寒風にさらされることで、コシが強く、甘みや風味のある寒そうめんになります。
 中畑さんは、消防のサイレンが鳴ると、ぞっとするそうです。消防団活動に行かなければならないからです。製造はそこで中止せざるを得ません。そうめんつくりは、一連の工程を間断なく行なわないといけないので、それまでの材料はすべて廃棄せざるをえないそうです。それでも、中畑さんは、そうめんづくりの手を止めて、消防団活動に行きます。
 小豆島の「島の光」というそうめんは、日本の農村歌舞伎という伝統文化を守り伝え、地域社会の安心安全つくりにも貢献しながら、気持ちをこめて作られています。だから「島の光」が、まごころがこもった、天下一品のそうめんであるのもむべなるかなです。
(平成23年1月14日)
中畑さんのそうめんづくりの様子
中畑さんのそうめんづくりの様子

箸分けの様子
箸分けの様子

中山千枚田
中山千枚田

田植え時の棚田
田植え時の棚田

たくさんの観客が集まった中山農村歌舞伎
たくさんの観客が集まった中山農村歌舞伎

中山農村歌舞伎
忙しい合間を縫って練習を重ね
手づくりの舞台は完成します

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第120回 オリーブイルカ


 オリーブイルカが導入されました。といっても新しい動物のことではありません。小豆島オリーブバスを利用できるICカードのことです。このカードを使用するとオリーブバスの運賃が一律13%割引になります。
 正確には、「OLIVE IruCa」と言います。小豆島オリーブバスと小豆島地域公共交通協議会(会長土井健司香川大学工学部教授)が高松琴平電気鉄道のICカード「IruCa」を導入したものです。カードは一枚2千円で、うち1500円はバス運賃などに使えます。また、チャージは車内、オリーブバス窓口でできます。琴電やことでんバス、高松の商店などでも利用できます。
 東京の地下鉄などでICカードに慣れた人にとっては、なんでもない話のようですが、小豆島のように過疎化に苦しみ、公共交通の存続や地域おこしがまったなしのところでは、このICカードにいろいろな思いがこめられています。
 昨日オリーブイルカの運用開始式がありました。小豆島地域公共交通協議会の土井会長が素晴らしい挨拶のなかで、その意味を話してくれました。
 「カードは、単なる利便性を図るためのものではありません。カードは、島の公共交通再生と島の結束力のシンボルです。人と人、地域と地域を結ぶシンボルです。バスだけでなく、フェリー、自転車などとの接合も可能です。交通をこえて、商業、経済、まちの活性化にもつなげていけます。オリーブをあしらったカードのデザインに力を感じます。ICカードの利用履歴機能はオリーブバスの持続的な運行計画、これからの島の経済発展にいろいろな形で活用していけるはずです」
 私は、土井会長の話に共感し、オリーブイルカにさまざまな期待をしています。何よりも住民の力で作られたオリーブバスをみんなで守っていくために、このカードを普及することが必要です。これにとどまりません。島の商店の活性化のためにも、機器設置は協議会が負担するにしても管理費用の負担が必要ですが、商店への普及が望まれます。
 オリーブバスを利用しているとわかるのですが、高齢者にとって、回数券や現金での支払いは大変のようです。ICカードに慣れることも簡単ではないかもしれませんが、診療所などでも利用できるように協力してもらうと、案外高齢者の方にとっても、便利なものになるように思います。
 土井会長が言われるように、オリーブイルカは、島の公共交通再生と島の結束力、人と人の絆、地域の絆のシンボルです。それに向けた取組みが島全体として求められます。オリーブイルカには、その思いがこめられています。(平成23年1月12日)
運用開始式で挨拶される土井会長
運用開始式で挨拶される
土井会長

オリバス君と一緒にテープカット
オリバス君と一緒にテープカット

実際にイルカを使用
実際にイルカを使用

ICカード 「OLIVE IruCa」
ICカード 「OLIVE IruCa」

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第119回 オリーブバス


 小豆島島内を(株)オリーブバスが走っています。かつては、(株)小豆島バスという民間会社が、このバスの運行をしていましたが、人口減少、何よりも自家用車の普及による利用者減で経営が困難になって、昨年4月から、地元自治会などの出資でできたユニークな(株)オリーブバスが経営を引き継いだのです。
 小豆島は観光の島であり、車の運転のできない高齢者などにとって、公共交通はなくてはならない足になるものです。どのようにして住民の足を守るか、住民出資の新会社は窮余の一策でした。マスコットの「オリバス君」の名称募集をしたり、役場や金融機関などが利用協力をしたり、また、昨年は瀬戸内国際芸術祭の効果などもあって、出足は順調のようですが、これから先の経営は容易ではありません。何とか大勢の人にこのバスを利用してもらえるよう、さらに知恵をしぼり、大きなはっきりした声で「ありがとうございます」のお礼の挨拶をしたり、クリニックの近くでは、「降りる人いませんか」と高齢者に声をかけたりなど、すぐにでもできることをちゃんとやったり、住民の一層の協力をお願いする必要があります。
 私も、朝はいつもこのバスを利用して通勤しています。ゆったりしているし、ちょっとした考え事をするにはぴったりです。車窓からの景色も海と山、絶品です。景色を見ていると、いろいろなアイデアも浮かびます。先日の休みは、二十四の瞳の映画村をあしらったレトロ風のバスに乗って、途中の堀越まで行って降りて、そこから大石先生が自転車で通った旧道を歩いて田ノ浦の映画村を訪ねてみました。
 この旧道は、今は人が通っていません。実は、この旧道を通るのは、50年ぶりです。子どものころ、この旧道を父の自転車に乗せてもらって、田ノ浦にある母の実家をよく訪ねたものでした。突然に、久しぶりに、この旧道を通って、田ノ浦に行ってみたくなったのです。映画「二十四の瞳」で大石先生を演じられた高峰秀子さんが昨年末に亡くなられたことも頭にありましたが、ある方が先日そこを歩いてとてもよかったというのを聞いたからです。旧道は、人が通らず、山の管理が行き届かなくなったせいか、多くの箇所が竹林になっていて神秘的でもありましたが、垣間見る瀬戸の海は、昔と同じ、静かな、鏡のように、きらきら輝く、海でした。
 映画「二十四の瞳」では、けがで休んでいる大石先生を訪ねて、子どもたちがこの旧道を何キロも歩いていくのですが、くたびれてもう歩けないというときに、大石先生がバスに乗って帰ってきて子どもたちに再会するシーンがあります。このバスは、オリーブバスの前身の(株)小豆島バスです。
(株)小豆島バスの名誉のために書いておきたいことがあります。先日、高峰秀子さんと松山善三さんのエッセイを紹介しました。そのエッセイで次のようなことが書かれていました。

 …小豆島を全国的に有名にしたのは私たちのように言われているが、それは違う。私たちの映画の前に、(株)小豆島バスの堀本文次さんという方が、小豆島のポスターを持って全国を走り回っていました、私たちの映画も堀本さんが何から何まで手はずを整えてくれたからできたのだと…。

 そう言えば、島の人が、堀本さんのことを「島の運輸大臣」と呼んでいたことを覚えています。今日の小豆島の発展は、偉大な先人たちの進取の気概に満ちた取組みのおかげによるものです。フェリーの問題をはじめ、島の公共交通をどう考えるか、堀本さんの時代のように、どんどん攻める時代ではありませんが、知恵を絞って、みんなで公共交通を守る行動をとらなければ、島が沈んでしまいます。
 岬の分教場のある田ノ浦へは、地元の大森喜代治さんなどの努力の甲斐あって、今は立派な道路ができて、車で簡単に行けるようになりました。おかげで今はもう誰も通らなくなった旧道ですが、私にとっては、大石先生と同じように、父や母と自転車で通った懐かしい思い出の道です。ときどきは、また、この道を通って岬の分教場を訪ねてみようと思います。
    (平成23年1月12日)
木々に囲まれた田ノ浦旧道
旧道から堀越を望む

旧道から見える瀬戸の海
旧道から坂手を望む

岬の分教場をあしらったレトロバス
はるか向こうに鳴門が見えます

(株)小豆島バスの堀本文次さん
沖には島が見えます

大森さんの著書「道」
沖に白く見えるのは海苔の養殖です

旧道から見える岬
旧道から見える田浦

坂手・田浦線
大森さんらの尽力により開通した県道249号
坂手・田浦線

大森さんの著書「道」
竹林に囲まれた旧道

岬の分教場をあしらったレトロバス
岬の分教場をあしらったレトロバス

      堀本文次氏の銅像
堀本文次氏の銅像
(堀本文次翁顕彰の像建立冊子より抜粋)

大森さんの著書「道」
県道坂手・田浦線建設について書かれた
大森さんの著書「道」

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第118回 成人式


 成人式が行われました。今年、小豆島町では182名が成人になり、うち154名の若者が成人式に参加しました。4分の3以上が参加し、女性が圧倒的で、ほとんど全員が華やかな着物姿でした。
 一方、40年前の成人の私たちは、今年還暦の祝いでした。町全体で対象者は3倍以上の約600名、祝いの式に参加したのは3分の1くらいでした。しかも女性の参加者はわずかでした。
 今年成人を迎えた人が生まれた平成2年、平成3年という年。日本も、世界も戦後の繁栄、秩序が大きく変わった年でした。ベルリンの壁が崩壊、東西ドイツが統一され、ソビエト連邦が崩壊しました。湾岸戦争も起きています。日本では、昭和が終わり、平成となり、バブルが崩壊しました。日本が坂の上から下りはじめたころかもしれません。あれから20年。日本も、世界も、この小豆島も再び変革の時代を迎えようとしています。その行く末は決して楽観的なものでないかもしれませんが、未来は若者たちの双肩にかかっています。明るい未来を切り開いてほしいと願っています。(成人式町長訓示)
 成人式に集まった若者たちは、とても健全に育っていると感じました。誓詞20歳の主張を述べた3人の若者は、素直に両親、家族、友人、恩師、地域への感謝の気持ちを述べ、大人としての責任を受け入れることを誓い、将来の仕事への決意を語ってくれました。何の感慨もなく成人を迎え、成人式に出席することなど考えたこともなかった私に比べ、立派なことだと思いました。
 今年の成人式の対象者が182名。40年前の私たちのころが約600名。20年後の成人式は、このまま人口の流入がないとすると100名に満たないものになります。人口が減ることは仕方ないとしても、この減り方がこのまま続いたのでは島としての力を維持できるはずがありません。どうすれば人口の減り方を少しでもゆるやかにできたり、どうしたら外の人に魅力を感じてもらい、島に移り住んでもらえるのでしょうか。あせってはいけないのでしょうが、今すぐにも、やるべきことはやり、変えるべきことは変えなければと思うのです。
 沸騰した湯の中に蛙を入れると蛙が飛び出します。しかし、水の中に蛙をいれ、段々と温度をあげると、蛙は沸騰するまで湯の中にいて、最後はユデ蛙になります。私たちは、蛙ではありません。知恵も力も勇気もある人間です。
 それにしても思うのです。これほど、自然がゆたかで、すぐれた文化と伝統が引き継がれていて、こんなに人に力も、地域にも力をあるところで、人口の減少がとどまることがないとすれば、この日本という国はこの先どうなるかということです。これから起ころうとしていることは、「地方が衰えても都会が栄える」ということではなさそうだということです。いろいろな人の知恵と力と勇気を借りて、すぐには成果がだせないないかもしれませんが、日本の縮図でもあり、先取りでもある、ふるさとの課題克服に、若者たちとともに取り組まねば、そんな思いを新たにした成人式でした。(平成23年1月11日)
成人式の様子
成人式の様子

誓詞を読み上げる大奥剛さん
誓詞を読み上げる大奥剛さん

20歳の主張を述べる橋本裕樹さん
20歳の主張を述べる橋本裕樹さん

20歳の主張を述べる真砂陽平さん
20歳の主張を述べる真砂陽平さん

新成人の皆さん全員で
新成人の皆さん全員で

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第117回 消防出初式


 消防出初式がありました。出初式は、江戸時代の火消しの出初に始まると言われています。出初式は、どこの自治体でも正月のこの時期に行われ、冬の風物詩になっています。
 小豆島町でも、町内の全ての地区11分団271名の消防団員と30名の防火婦人会、来賓80名、消防署員20名計約400名が参加し、分列行進、操法披露などを行いました。
 私は、長い間霞ヶ関で公務員生活を送り、国や地方公共団体の役割、地域社会のあり方については、それなりの知識を持っているはずと思っていました。小さな地方の基礎自治体を町長として預かってみて、予想を超えて実感しているのは、防災の重要性、そして消防団という地域住民による組織の持つ重要性、力の大きさ、ありがたさです。
 私は、厚生労働省、環境省の分野の仕事が主だったので、その視点でよくものを考えてきました。福祉の分野で、よく言われるのは、自助、共助、公助の意味、それらの役割分担、優先順位をどう考えるか です。これらの考え方の相違が、国政における政党の相違にもなっていると思われます。少子高齢化が進み、人口が減り、都会、地方を通して、家族や地域社会の絆が弱体化する下で、福祉をどう構築するか、立場によって考え方が大きく違ってきます。
 地方の小さな過疎化の進む基礎自治体に戻ってみて、福祉は、もちろん重要なのですが、その前に、火災、水害などの災害にみんなでどう立ち向かうかという基本課題があり、そのことを地域社会はそれなりに克服してきたのだと実感しています。そして、その経験が、福祉へもつながり、生かされていくと思っています。
 私は、消防団という、地域住民の自主的な、ある意味では義務的な組織が、団員確保などに苦しみながらも、厳然として存在し、大きな役割を地域社会で果たしていることに感動すら覚えています。消防団は、ある意味では空気のような存在になっていて、町長という立場になってみて初めて、その意義がわかったのです。
 消防、防災活動は、地域社会にとってなくてはならない営みですが、すべてを公的な組織、公務員で行うことは不可能なことであり、ありえないことです。消防団は、自助、共助、公助が一体になったものです。あるいは、福祉の世界でなされているような小難しい議論をこえたところにあるように思います。議論よりも実践がなければ地域社会を守れないのです。「日本人はボランティア精神が乏しい」などと批判する人がいますが、消防団活動は、究極のボランティア活動であり、批判をする人は、狭い視点でしか、ものが見えていないのだと思います。
 そこで福祉分野のボランティア活動をどう考えるかです。これまでは、家族や近所のつながりも強く、人々はいろいろな助け合いをして暮らしてきましたので、地域のボランティア活動を組織化しようとか、活性化しようなどいうことは日本の地域社会では必ずしも必要なかったのだと思います。しかし、これほど、子どもが減り、高齢者が増え、人口が減ってきたとなると、手をこまねいているわけにはいかなくなっています。地域社会で、みんなで助け合う仕組みが必要になっています。福祉を防災、災害と結びつけるのは適当でないのかもしれませんが、地域社会が、このままでは、SOS、危機的な状況になって、壊れてしまいかねません。いろいろな形の福祉分野の消防団が必要になっています。福祉の消防団は、地区によって、担い手も、活動内容も、活動拠点も、いろいろです。担い手なら、社協、婦人会、老人クラブ、NPOなどなどいろいろ、活動内容なら、高齢者福祉、子育て、教育、環境などなどいろいろ、活動拠点なら、公民館、民家、あき教室、集会所などなどいろいろです。新しい福祉の消防団の力で、人の力、地域の力、きれいな自然、文化などの宝物を守っていくことが必要です。
 出初式での消防の制服、制帽そして団員への訓示、敬礼すべてが初めての体験でした。厳しい寒さのなかの出初式でした。厳しい冬が終わった後、あたたかな春の到来が待たれます。(平成23年1月11日)
消防出初式の様子
消防出初式の様子

たくさんの車両も集合しました
たくさんの車両も集合しました

団員に敬礼する塩田町長
団員に敬礼する塩田町長

町長表彰を受賞した皆さん
町長表彰を受賞した皆さん

分列行進の様子
分列行進の様子

婦人会の皆さん
婦人会の皆さん

西村分団の皆さんによる操法の様子
西村分団の皆さんによる操法の様子

見事に訓練された操法を披露しました
見事に訓練された操法を披露しました

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第116回 お帰りなさい頓宮先生


 頓宮寛(とんぐうゆたか)先生が町立内海病院に帰ってこられました。と言っても頓宮先生は、昭和49年12月に旧内海病院の病室で90歳で亡くなられているので、帰られたのは写真の頓宮先生です。昨年頓宮先生の生涯を描いた「奇跡の医師」を書かれた隣町土庄(とのしょう)町の土庄中央病院に勤務する南堀英二さんから、先生の写真を内海病院に寄贈していただきました。
 頓宮先生は、小豆島の北部のひなびた漁村小部(こべ)村で医業を営む家庭の一人息子として生まれました。9歳にして一山、といっても小豆島の最高峰は8百メートルを越えるものです、越えた村の高等小学校に進むためひとり生家を離れ、13歳にして今の岡山朝日高校に学び、卒業後は東京大学医学部に進みました。
 東京大学医学部では、斉藤茂吉、荻野久作らと同級生であったと言います。後に小豆島を訪れる尾崎放哉とも同窓として、接点があったのではないかとも言われています。
 頓宮先生は、大正7年、日本医科大学の職を辞して、排日救国の嵐が吹き荒れる中国に渡ります。中国で生活するからには、中国の言葉を使っただけでなく、中国人であろうと日本人であろうと、人の命になんら変わりはない、患者に対しては礼儀正しく、親切にという医療理念を貫かれました。そして、上海に東洋一の個人総合病院上海福民病院を造り、慈愛の医業を実践し、中国民衆の信頼を一身に集めました。
 しかし、終戦により病院のすべてを接収され、裸一貫でふるさと小豆島に戻り、内海病院の創設に尽力、初代院長として小豆島の地域医療に尽力されたのです。以前にもこのブログで紹介しましたが、戦後間もない頃にすでに開放型病院の理念を提起されたり、最高の医療を提供することで、患者が小豆島にやってくる時代がくるという、まさに今私が考えていることを病院開設時にすでにおっしゃっています。
 恥ずかしいことに、頓宮先生の偉業を知る町民、病院スタッフは少なく、内海病院には頓宮先生の写真1枚掲示されていなかったのです。そして、先日、南堀さんから頓宮先生の写真の寄贈していただいたのです。お帰りなさい。頓宮先生。これからも小豆島の医療の発展を見守ってください。(平成23年1月11日)
(追記)
  頓宮先生に関することは、南堀英二さんが書かれた「奇跡の医師」(光人社)に詳しく紹介されています。是非お読みください。
 また、2月14日午後5時30分から内海病院大会議室で、南堀さんに頓宮先生とその時代についてご講演をしていただきます。是非、聴講していただきたいと思います。あわせて、南堀さんが集められた頓宮先生に関連する多数の写真の展示も行う予定です。
 南堀さんによれば、頓宮先生は、身長180センチメートルに近い長身の方で、文武両道にたけた、凛とした方だったそうです。晩年、頓宮先生が、母校の大部(おおべ)小学校に赴くと、悪がきの少年たちもぴーんと背筋を伸ばしたそうです。一方、近所の高齢者、患者の方々には、じつにやさしく、柔和に笑顔を絶やさなかったそうです。
 まさに内村鑑三さんの「代表的日本人」「代表的小豆島人」ここに在りです。
頓宮寛 先生
頓宮寛 先生

上海福民病院時代の頓宮先生
上海福民病院時代の頓宮先生

上海福民病院本館
上海福民病院本館

現在の上海福民病院
現在の上海福民病院

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第115回 再び宇多田ヒカルさん、高峰秀子さん


 この間のこのブログで歌手の宇多田ヒカルさんが、「二十四の瞳」のことを Twitterでつぶやかれていることを紹介しました。再び宇多田さんがTwitter でつぶやかれています。
 お正月に壺井栄さんの「二十四の瞳」を読まれ、木下恵介監督、昨年末に亡くなられた高峰秀子さんの映画も観られたそうです。本も映画も素晴 らしかったと書かれています。高峰さんが美しかったと感想を述べられています。
 宇多田さんは、昨年末でしばらく音楽活動を休止されると聞いています。きっと忙しい日々で燃焼されてしまっているでしょうから、人間としてのエネルギーの充電をされるのでしょう。この休暇は、失礼ですが、宇多田さんにとっては、人間性を取り戻す期間になるはずです。人には、何もしないでぼーっとしたり、普通の人として、誰にも注目されないで、いろいろな体験や経験をしたりするときが不可欠です。
 今月15日(土)21時からNHK総合テレビで宇多田さんの活動休止前の姿を紹介したドキュメンタリー番組「宇多田ヒカル~今のわたし~」があるそうです。 是非ご覧いただきたいと思います。
 宇多田さんも書かれていますが、宇多田さんが「二十四の瞳」のことを つぶやかれたすぐ後、昨年の暮れに高峰秀子さんが亡くなられました。お二人は不思議な糸でつながっているようです。お二人は、強い意思をお持ちだというところで共通する点があるように感じます。
 高峰さんは、清楚で凛とした女優さんですが、高峰さんが大変な文筆家であることは知りませんでした。高峰さんは、ご自身の身の回りでおきた出来事などを、実に率直に、歯切れのいい文章で綴っておられます。女性として、人間として、回りへの思いやりととても強い意思をお持ちであることを知りました。年末に町立の図書館に行って調べると、実に十冊をこえる著書がありました。私は、町長としての特権を行使して、それらを全部借りて、正月は、それらから「二十四の瞳」や小豆島について書かれているところを読んで過ごしました。映画のロケのことなど、たくさん書かれていて、当時の様子が眼に浮かび、感銘しました。
 「二十四の瞳」の映画のロケで小豆島に来られたとき、高峰さんは29歳。30歳までには結婚するのだと決めていたのだそうです。回りを見ると、候補になる男性が二人いました。ひとりは、銀座に土地を持つ金持ちの坊ちゃんで、ふんわりと肉付きもよく、仕事ぶりも鷹揚で明るい美男子。もうひとりは、お父さんが失職中で、お母さんが病気の、貧乏で苦労している青年。ギスギスとやせた頬骨をとがらせて、神経質にセカセカと現場を飛び回っている。高峰さんは、ロケ中のある日の夕暮れ、お金などという面倒なものははじめから無いほうがサッパリしていいではないかと、後者の男性と結婚することを決めます。その男性こそ後の名監督、名脚本家の松山善三さんです。松山さんはこのように書かれています。

 「小豆島は、僕たち夫婦にとって、もっとも思い出の深き島だ。
 結婚は、男女どちらにとっても生涯の大事だが、わが家の嫁さんが、僕との結婚を決意したのは、この島での、ある日の夕暮れだったという。
 おそらく、その日は、東の空が茜色の、海は銀色、櫓を押す音が、ぎっちらこと彼女の視野を横切っていったに違いない。今を去ること三十二年前である。
 彼女は当時映画スターで、この島の作家、壺井栄の小説『二十四の瞳』の撮影に来ていた。僕は、しがない助監督。抱負はあるが、結婚などとは、夢々、考えたこともなかった。
 どだい僕は、間違って芸能界へ入ったような経歴だから、監督を約束されたわけでもなく、脚本家になれる自信もなかった。
 彼女は、一か八かで、僕を選び、僕は恍惚と不安のなかで、うなずいた。もしかしたら、この島をとりまく海の、あやしい美しさのせいだったかもしれない。」 (「旅は道づれ、雪月花」 松山善三・高峰秀子)

 高峰秀子さんのご冥福を祈ります。松山善三さんには、今健康を損なわれているとお聞きしていますが、島のみんなで、あやしくも美しい海を守っていくことをお誓いします。そして宇多田ヒカルさんには、こっそり小豆島を訪れて、新しい何かを見つけて いただきたいと思います。(平成23年1月8日)
高峰秀子さんの映画「二十四の瞳」 高峰秀子さんの映画「二十四の瞳」

高峰秀子さんの映画「二十四の瞳」


岬の分教場
岬の分教場

オリーブ公園から望む海
オリーブ公園から望む海

花寿波からの朝日
花寿波からの朝日

国民宿舎から見る夕陽
国民宿舎から見る夕陽

高峰さんの著書
高峰さんの著書
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第114回 社会保障と地域の役割


 私は、長い間、厚生労働省に勤めていましたので、社会保障について、それなりの知識と経験があるように思われているでしょうが、必ずしもそうではありません。
 厚生労働省でやっていたことは、制度の大枠づくりのような仕事で、実際の現場の状況を必ずしも正確に理解しているとは言えません。 厚生労働省での仕事は、年金、医療保険、介護保険などの社会保障を、制度として、どうしたら持続可能性を高めることができるかということでした。少子高齢化が進み、人口が減り、経済発展が停滞するなかで、それは必要不可欠なことですが、国民的には不人気な仕事でした。また、その意義を私自身、厚生労働省のとき必ずしも正確に理解していなかったように思います。
 町長として、小さな基礎自治体を任されて、社会保障の制度としての持続可能性を高める仕事の意義が少し、わかったように思います。それは、年金、医療保険、介護保険などの社会保障制度が、地方自治体が地方自治体としての仕事をする上で、ミニマムの下支えになっていることです。
 それは、もしこれらの社会保障制度がなくなったり、役割が大幅に縮小された場合を考えればわかります。年金制度がなければ、過疎化の進む地方はもっとはやく衰退していたでしょう。年金制度がその歯止めの役割を果たしています。医療保険や介護保険制度がなければ地方自治体は、医療や介護を保障することができなくなり、大混乱になるでしょう。社会保障制度は、地方を支える仕組みでもあるのです。
 これまでは、国にも財源のゆとりがありましたが、今は、財政赤字で四苦八苦しています。そのなかで社会保障が制度として持続可能性を高める方策を考えるのが、社会保障制度改革です。国に魔法があるわけではありません。みんなで譲り合ってぎりぎりの合意をする以外ありません。社会保障制度のあり方で地域のあり方も変わってきますので、その合意は大切なことです。
 ここで考えなければいけないことは、全国一律の社会保障制度は、すべての医療や福祉のニーズに応えるものではないことです。社会保障制度は、全国共通の基本的なニーズや重たいニーズに対応すべきものです。社会保障制度が、全ての助け合い、支え合いまで包含し、社会保障ですべてが解決できるような議論は間違っていると思います。その意味で、介護の社会化や子育ての社会化というような言葉も、丁寧に使わないと、誤解を招くかもしれません。
 社会保障制度では、カバーできない福祉がいっぱいあります。自治体の仕事は、介護保険など社会保障でカバーできない福祉をどう実現するかも考えないといけません。例えば、車を利用できない高齢者がどうしたら買い物などに行くことができるかなど、地域の状況にあわせて考えていく必要があります。社会保障を基礎にしながら、それにどんな助け合い、支えあいを重ねていけるか、それぞれの自治体の力、地域の力が試されています。
 人間社会にとって、大切なもの、なくてはならないものは、自分の力で頑張ろうと思う気持ち、家族や地域での助け合いや支え合い、地域で高齢者がいつまでも元気で健康でいられるような取組み、近所の子どもたちの育て・育ちの応援など、地域のさまざまな活動であると思います。日本が少子高齢化や人口減少を克服できるかどうかも、こうした人の力、地域の力を取り戻せるかどうかにかかっているように思います。(平成23年1月5日)
介護予防支援ボランティア制度発会式
昨年から始まった介護予防支援
ボランティア制度発会式の様子

転倒予防教室
小豆島町地域包括センターによる
転倒予防教室

元気な高齢者の皆さん
老人スポーツ大会
老人スポーツ大会

老人クラブ演芸大会
老人クラブ演芸大会

幼稚園児たちとの七夕の飾り作り
幼稚園の園児たちとの七夕の飾り作り

小学校の児童たちへの稲の脱穀指導
小学校の児童たちへの稲の脱穀指導

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第113回 新年挨拶


 役場の皆さんに次のような新年挨拶をしました。
 今年という年に、どう立ち向かうか、私の思いの一端を話しました。
 人口減少に悩む地域が、元気になれるよう、みんなで知恵を絞り、力をあわせたいと思います。
 

 明けましておめでとうございます。今年の正月はとても寒くて冬らしい正月でした。寒さのおかげで家族のみなさんとゆったりと過ごすことができたのではないかと思います。家族団らんは平凡なことのようですが、これにまさる幸せはありません。

 今年はウサギ年、卯年です。なかでも60年に一度の辛卯(かのとう)という卯年です。卯年、うさぎ年は、飛躍の年です。 辛卯の年は、これに加えて、出直しの年、新しい芽が出る年であると言われています。小豆島にとっても、日本全体にとっても、今年は、出直しの年、新しい芽の出るにならなければならない、是非そんな年にしなければならないと思います。 私は、小豆島にとっては、きっと、飛躍の年、出直しの年、新しい芽の出る年になるだろうと思っています。

 さて、問題は、今年が飛躍の年、出直しの年、新しい芽の出る年になるために何が必要かです。いろいろありますが、私は、第一に、私たち役場がこれまでの発想や姿勢、心の持ち方を変える必要があると思います。 受身ではなく、課題に積極的にチャレンジする発想や姿勢、心の持ち方にしなければいけないと思います。一人ひとりの皆さんが、どうすれば小豆島を元気にできるか具体策を考え、提案し、実行してほしいと思います。 それが役場の使命であり、ミッションです。 それは何故でしょうか。 日本全体も小豆島も取り巻く環境が大きく変わってきており、この環境変化を乗り切るためには、役場という最も基本的な自治体が対応しなければ、そこが対応を怠れば、環境変化にたえられず、その地域全体が衰退していくからです。

 蛙を湯の中に入れると飛び出します。 しかし、水の中に蛙を入れて、段々と熱くすると、蛙は沸騰するまで、温度の変化に気がつかず、最後はゆで蛙になって死んでしまいます。小豆島は蛙ではありません。環境変化とは、少子高齢化と人口の減少、国内外の競争の激化です。日本も小豆島も、これまでの発想や姿勢、心の持ち方のままでいいはずがありません。私たちの先祖が何百年、何千年と築いてきた自然、文化、伝統などの宝物を守るためには、私たちは、環境変化に対応して変わらねばなりません。

 国と地方の関係も大きく変わろうとしています。これまで、地方から人材をひきこんだ都会が発展することで、日本は成長してきました。今都会は、成長の限界にぶちあたっているように思います。都会という言葉を中央政府、国と置きかえることができます。国には、かつてのように、全国の自治体に対して、あるべき方向を指し示し、財政的な支援を行う力がもうなくなろうとしています。政治の混迷がいっそう輪をかけています。国の衰退は、官僚が無能で、腐敗したことが原因ではなく、少子高齢化が進み、人口が減って、国自体の力が衰退していることに根本原因があります。それを解決できる答えを国が出せなくなっています。これまで地方自治体は国の方針に沿って、国の財政支援によって、政策を進めていれば、その仕事をこなすことができました。しかし、これからは、自治体自らが、考え、行動しなければいけない時代になっています。少子高齢化や人口減少という深刻な課題は、もちろん衰えたとは言え国の支援、力は必要ですが、自分たちの知恵と力で解決していくしかありません。

蒲野地区、花寿波からの日の出
蒲野地区、花寿波からの日の出
中山の千枚田
中山の千枚田

 二番目の大きな環境変化は、民間が厳しい国際競争、国内競争のなかで経済活動を行うことが求められていることです。とりわけ開発途上国の力は驚異的なものになっています。
 小豆島は海運が隆盛な時代に、進取の気概に満ちた多数の企業家、農業人がいたおかげで、島としては類まれな発展を遂げてきました。人口が減る今も、小豆島が一定の繁栄を維持できているのも、こうした先人たちの残した財産、そしてその意志を引き継いでいる人々のおかげです。
 これまで、行政、役場の仕事は、こうした先人の後をおいかけることで足りました。今、時代は一変しています。農林水産業を含めた産業界が、世界や日本に伍して、競争に勝ち抜くためには、産業界の自助努力がもちろん必要ですが、行政、役場が率先して、競争条件の不備を補い、有利な競争条件を作り出していかねばなりません。役場の仕事が、受身、待ちの姿勢であっていいはずがありません。自ら考え、行動することが役場の使命として求められています。

 時代の変化、環境の変化に合わせて、役場は変わらねばなりません。役場が変わらなければ、小豆島は、このまま人口減少が続いて、衰退してしまいます。逆に、役場が変わることで、小豆島には発展のチャンスがあると思っています。これほど、自然、文化、伝統、地域の力、人の力に恵まれた地域はありません。役場は、地域の力と知恵が結集すべきところです。役場が変わり、頑張らなければ小豆島の発展はない、その自覚と自信をもちたいと思います。

小豆島芸術家村開村式
小豆島芸術家村開村式
福田地区にある石彫作品
福田地区にある石彫作品

 もうひとつ申しあげたいと思います。それは、島はひとつでなければいけないということです。 町長になって8か月、医療、福祉、教育、観光、交通など、いろいろな課題の克服策を考えていますが、どれも島がひとつの観点でしか解決できないものであることを実感しています。島の人口が4万、5万人のときと異なり、3万人から2万人台につるべ落ちしていくなかで、行政がふたつに分れていて問題が解決できるはずがありません。人口規模の変化だけでなく、国と地方の関係の変化、内外の競争激化に対応するには、島がひとつになって、一致団結することが不可欠です。島がひとつになって、島の魅力を高めることでしか、島が発展できる道はありません。
 今年は、島はひとつという視点から、医療、福祉、教育、観光、交通などで大きな動きが始まる年になると思います。それによって新しい問題もおきるでしょうが、より大きな課題を克服するためには避けて通れないことだと思います。

 島はひとつということと、それぞれの地域、集落などの特性、個性を活かすことは両立することだと言うことを忘れてはいけません。三都(みと)なら芸術による地域おこし、福田なら石彫のまちおこし、苗羽・馬木(のうま・うまき)なら醤(ひしお)の里づくり、中山なら千枚田といった地域の特性、個性を活かした地域づくりが今以上に重要になってきます。

 私は、長い間、福祉の仕事をしてきました。地域福祉、子育て、高齢者の社会参加、介護、障害福祉などは、住み慣れた小さな地域が基本になって行われるものだと思います。少子高齢化が進んで、人口が減って困っている今だからこそ、もういちど、小さな地域ごとに、いろいろな活動拠点があっていろいろな活動のグループがあるという、地域社会の原点を取り戻したいと思っています。活動拠点は、公民館であったり、小学校であったり、集会所であったり、地域によっていろいろであっていいし、活動主体も社協でもいいし、婦人会でも、自治会でも、商工会でも、新しいNPOでもいいと思います。もう一度小学校単位くらいの地域がいろいろな課題に取り組んで、元気さを競いあうくらいになってほしいと願っています。そこから少子高齢化、人口減少を克服するヒントが得られるはずと考えています。今年は、そういった政策に力を入れたいと思っています。

 小豆島の魅力を高めて、島の人がそのことに自信と誇りを持ち、その魅力を全国に発信していかねばなりません。そのことが課題克服につながっていくはずです。
 昨年の池田中学校陸上部、小豆島高校陸上部の活躍はその意味で見事でした。 NHKの解説の方が、とてもあたたかいコメントをしてくれました。 いいゴールですね。来年も出場してほしいですね。
 「八日目の蝉」で主人公は、広くて大きなきれいなものぜんぶ入った小豆島の景色をおなかのなかの子に見せる義務があると言っていますが、それは景色だけでなく、小豆島での人と人の絆、家族の絆の経験、そんな、あれもこれも、ぜんぶを見せたいと言っているのだと思います。

 行政、役場の立場で言えば、小豆島の素晴らしいもの、宝物を次の世代の繋ぐ義務が役場にあると私は思います。 そのために何をしなければいけないか。 皆さんと知恵と力をあわせて、今年を飛躍の年、出直しの年、新しい芽が見つかる年にしたいと思います。 (了) (平成23年1月4日)
 
醤の郷の町並み
醤の郷の町並み
醤油桶の並ぶポケットパーク
醤油桶の並ぶポケットパーク

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第112回 還暦の祝い


 今年還暦の祝いを迎えました。我ながら信じられないことです。 もう60年もの年月を生きてきたというのです。宮司によれば、60年が人生の一回り、これから次の一回りに入るのだから、それなりの分別を持ち、若い人の意見にも耳を傾け、それなりの生き方をしなさいと言うことでした。
 しかし、私の実感は、どうもまだ子どものころのままなのです。 「父あってわが強さあり、母あってわがやさしさあり、父母の後姿忘れられず、わがこころの支えなり」という詩があります。この詩のようでは必ずしもありませんが、名もない庶民として、子にそれなりの生き方を教えてくれた父母も去り、わが子や孫にとって、どんな父であり、どんな祖父なのか考えたこともありません。
 還暦の祝いで再会した小学校の先生や同級生がとても懐かしく感じました。もうあれから半世紀近くも過ぎています。6年間もの年月、彼らとは同じクラスで、学び、遊んだのです。性格、能力、思いは、隠しようも、騙しようもありません。半世紀の前のことなのに、すべての記憶が昨日のことのように思われます。
 担任の先生が、4年生のとき、ある子が蝶を追いかけて、新築直後の教室の大きなガラスを割ったとき、怒られるはずの校長先生が、蝶をおいかけてのこと心配しないようにと言われた思い出話をされました。先生にとっては、一途だったかもしれない、その子のことが今も心配のようです。先生は彼の姿を探しましたが、あいにく彼は欠席でした。
 ある同級生が、その先生から、当時まちじゅうを石を拾って歩く青年がいたのですが、その青年は、石を拾って集めることが社会のためになると教えられて、それを実行しているのだから、尊敬しなければいけないと、教えてくれたと話しました。先生は、そんなこと言うたかな、覚えとらんわと言いました。
 私は、そのころも内気で、人前で話すことのない、めだたない、おとなしい児童に過ぎなかったのですが、その先生のおかげで、少し勉強に自信ができ、勉強が好きになったように思います。今では、信じられないのですが、きちんと丁寧にノートをとる児童だったそうです。
 「二十四の瞳」の大石先生は、岬の分教場だけでなく、島のここかしこにおられたのです。私の担任の先生たちは、私たちにとっての大石先生だったのです。
 還暦祝いは伝統的に小学校単位で行われます。人生において、小学校の持つ意味が小さくないことが、こんなところにもあらわれています。二次会までは、小学校単位でしたが、三次会は旧内海(うちのみ)町中の小学校のみんなが集まっての大三次会になりました。それほどに60年という一回りは、大きな区切りなのだろう思います。
 60年生きて、ずっと今もふるさとで頑張る人もいれば、島を離れて帰らない、帰れない人もいます。親の介護のためにも帰りたいという人もいます。誰もが、ふるさとのことを思い、心配しています。今度会うのは古希のとき、それまでにもう一度こうしてみんなで会おうと約束しました。そのときにはふるさとに新しい芽がいくつも育っているようにと、私は願いました。(平成23年1月4日)

苗羽小学校
苗羽小学校

小学校にある二ノ宮金次郎の像
小学校にある二ノ宮金次郎の像

宮山
こどもの頃、みんなで遊んだ宮山

宮山
当時とは、だいぶ様子も変わっています

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第111回 さようなら大石先生 高峰秀子さんのご冥福を祈ります


 昨年末に女優の高峰秀子さんが亡くなられました。86歳だったそうです。高峰さんは、昭和29年松竹映画「二十四の瞳」で主役の大石先生役を演じられました。大晦日の夜、マスコミから電話があり、もちろん私は、高峰秀子さんに直接お会いしたことはありませんが、(財団法人)二十四の瞳・岬の分教場保存会理事長として、とっさに次のようにコメントしました。  
 「岬の分教場の大石先生が亡くなったようにとても悲しいです。今の小豆島があるのも「二十四の瞳」の原作者の壺井栄さん、映画化された木下恵介監督、そして大石先生を演じられた高峰秀子さんのおかげです。謹んでご冥福をお祈りします。」 
 「二十四の瞳」は、その後何度も映画化されたり、ドラマ化されたりしました。大石先生役をされたのは田中裕子さんと黒木瞳さんなどです。もちろんどの作品も素晴らしいものでした。しかし、大石先生は、何と言っても高峰さんだと思います。  
 おなご先生の名は大石久子。湖のような入り江の向こう岸の、大きな一本松のある村の生まれです。そこから、農山漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村の分教場に、何キロも続く、くねくねと曲がった道を、当時としては、ハイカラな自転車に乗って、教師として赴任します。  
 桜の木の下で先生は、いつも12人の子どもたちと遊び、七つの子など、たくさんの歌を一緒に歌います。今の映画とは違って歌詞の省略はなし、まるまるぜんぶ歌います。  
 先生は戦争には反対です。しかし、先生は、そのことを声高に言ったりしません。軍人がすきな子が聞きます。「先生、軍人すかんの?」先生は答えます。「うん、漁師や米屋のほうがすき」。「へえん。どうして」「死ぬのおしいもん。」「よわむしじゃなあ。」「そう、よわむし。」  
 時代が変わっても、「二十四の瞳」は、教育の原点であり、人の生き方を考えるときに思い出される小説であり続けるだろうと思います。それは、この小説に登場にする人々が、雄弁に語ることのない、名もない庶民となきべそ先生であるからに違いありません。  
 高峰さんのことを、清楚で、かつ毅然とされていて、どこかのお嬢さんと思っていました。ところが実際の高峰さんは、4歳で実母を亡くし、引き取られた養母の家族を養うために子役として映画デビューし、小学校にも満足に通えなかったそうです。それからも親族を養うために懸命に働き続け、好きな読書 を楽しめるようになったのは、55歳で女優を引退してからのことだそうです。  
 若くて、きれいで、ハイカラで、なきべそで、子どもがすきで子どもにすかれた大石先生。いつも輝かしくて、思いやりに満ちた高峰秀子さん。ありがとうございました。さようなら大石先生。(平成23年1月4日)

高峰さん主演、映画「二十四の瞳」の一場面

高峰さん主演、映画「二十四の瞳」の一場面

高峰さん主演、映画「二十四の瞳」の一場面


演劇の一場面
「二十四の瞳」は町民手作りの
演劇も何度も上演されています

演劇の一場面
演劇の一場面

分教場に来訪された方が感想を書きとめたノート
分教場に来訪された方が感想を書きとめたノート
(この中には、「教師をめざした原点は、二十四の
瞳を読んだことです」というコメントもあります。)

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第110回 宇多田ヒカルさんのつぶやき


 歌手の宇多田ヒカルさんが年末にTwitterで小豆島のことについてつぶやいているのを知りました。宇多田さんのとても新鮮な感覚が伝わってくるようで嬉しくなりましたので、皆さんにも是非紹介します。
 宇多田さんは、ご存知のようにミュージシャンのお父さんと元歌手のお母さんのもとに生まれ、ニューヨークに育った、日本を代表する若手ミュージシャンの一人です。
 Twitterによれば、宇多田さんの父方のおじいさんが松竹におられて、映画「二十四の瞳」の製作にかかわっておられたこと、日本の学校に通っていないので、多くの日本人が共有している経験や知識に欠けるところがあるとご自身で言われて、逆に大人になってから知るのも楽しいそうです。 映画もよさそうだが、小説も読みたいと思って調べて、小豆島が「二十四の瞳」の舞台であること知りました。  
 そんなことを考えているときに、テレビの画面に全国高校駅伝で46位でフィニッシュした小豆島高校のランナーが映りました。そこで宇多田さんはこう書いています。  
 「今テレビで女子全国高校駅伝観てたんだけど、46位でフィニッシュした小豆島高校のランナーがめっちゃいい笑顔でゴールして、感動しちゃった!実況も『あ~いいゴールですね~』って言ってたけど、最高の笑顔だったぜ!ちょうど最近小豆島のことについて調べてたからなんか嬉しい」  
 そして今年の正月映画は「二十四の瞳」に決定・小豆島にも行ってみたいと書かれていました。宇多田さんのこのTwitterの言葉は、とても気持ちがこもっていて、素直な感じで、彼女の歌の感じにつながるようで、つながらないようで、とにかく、年末の二重三重の嬉しいニュースでした。そして、数日後に大石先生の高峰秀子さんの訃報を聞いたのでした。(平成23年1月4日)

宇多田ヒカルさんのTwitter
宇多田ヒカルさんのTwitter

全国高校駅伝、笑顔のゴール
全国高校駅伝、笑顔のゴール

岬の分教場
岬の分教場

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第109回 新年を迎えて


 明けましておめでとうございます。皆さんにとって今年が良い年になればと思います。
 今年は、卯年ですが、そのなかでも辛卯(かのとう)という年です。辛卯の年は、新たな出直しのとき、新しい芽がでる年といわれています。小豆島にとっても、日本にとっても、そういう年であってほしいと思います。
 なお、ちなみに私は今年年男で、しかも還暦という節目の年にあたります。小豆島町の広報誌2011年1月号に「小豆島の未来」という原稿を書きました。お読みいただければ幸いです。
 今年もよろしくお願いします。



                          -小豆島の未来

 明けましておめでとうございます。今年が町民の皆さんにとっても、小豆島にとってもよい年なることを祈っています。
 町長になって8か月余りがたちました。あっという間のことのように思います。私にとっては40年ぶりのふるさとでの生活でした。40年前と変わっていないこと、変わっていたこと、いろいろあります。40年前には気がつかなかったこと、初めて知ったこともいっぱいあります。課題も山積していますが、宝物もいっぱい、課題を克服し、宝物に磨きをかけて、小さくともきらりと光る小豆島を次の世代につないでいこうと思っています。小豆島の未来です。町長として2年目となる今年、そのための政策を少しずつ形にしていこうと考えています。
 小豆島の最大の課題は、人口が減り続けていることです。こんなに自然、文化、伝統、地場産業などに恵まれているのに、なぜ人口が減り続けるのでしょうか。人口がこのまま減り続ければ、25年後には2万人を割ってしまうと予想されています。25年後の予想される人口規模、そのときの高齢化率は50%を超えています。このまま今の仕組みを続けるだけでは、小豆島の宝物を次世代に継いでいくことは至難なことでしょう。人口が減ることを止めることはできませんが、人口の減り方を少しでも緩やかなものにすることが必要です。そのために必要とされる政策とは、一言で言えば、小豆島の魅力に気づき、その魅力を高める政策です。小豆島の未来をつくる政策です。
小豆島の人口の推移
小豆島の人口の推移 (クリックすると拡大できます)

小豆島の人口ピラミッド
小豆島の人口ピラミッド (クリックすると拡大できます)

  人口が減る要因として三つあると思います。ひとつは全国的な人口減少と共通のものです。結婚をする人が減ったり、晩婚化が進み、生まれる子どもの数が減っていることです。二つ目は、地方がかかえる人口減少と共通のものです。都会の魅力を求めて、地方から都会へと向かう若者たちの人口移動です。三つ目は、島であることのハンディキャップが拡がっていることです。車の普及で、海や海運が衰退、陸上に比べた不利が大きくなって、多くの島々が大きな人口減少に直面しています。
 どうすれば人口の減り方を緩やかなものにできるでしょうか。人口減少の三つの要因に応じた対策が必要です。第一の要因は全国共通ですから、子育て支援など全国共通の対策を講じていくことが求められます。
 第二の要因については、これからは都会の限界が表面化し、地方の魅力に惹かれて、都会から地方への流れが始まってくると私は考えています。しかし、すべての地方がその対象になるのではなく、魅力のある地方がその対象になるということです。地方の側の魅力を高める懸命な努力が必要です。
 第三の要因については、フェリーボートを陸の道路と同じく海の道路、すなわちフェリーボートを社会資本と考える、交通政策の発想の転換が必要です。国の交通政策の見直しが必要ですが、それが実現するまでの間にも、海と陸との格差が広がっていきます。島のハンディキャップを縮める努力だけでなく、島の利点をアピールすることも必要です。瀬戸内国際芸術祭では、瀬戸内海の島々の魅力、航路で結ばれることで島々が輝きを取り戻せることなど、そのヒントが見えたように思います。
 
人口減少・少子高齢化を克服するために
人口減少・少子高齢化を克服するために (クリックすると拡大できます)

 このように人口の減少を緩やかにするために、いろいろな観点の対策が求められるのですが、一言で言えば、小豆島の魅力を高めることができるかどうかにかかっています。小豆島に住む人々が自分の島に誇りと自信を持ち、外部への流出をできる限り少なくすること、子どもたちのふるさとを愛する気持ちを育み、大学を出た後などに小豆島に戻れる環境をつくること、小豆島の魅力を感じて新しく移り住む人たちが増え、それらの人たちの手によって新しい魅力を増すことなど、いろいろなことが現実のものとなるように、時間はかかるかもしれませんが、大きな海図を作って、島がひとつになって、取り組んでいきたいと思います。小豆島の魅力を高める政策としてどんなことを考えているか、順番に紹介します。
新しい小豆島の魅力を高めるための政策
新しい小豆島の魅力を高めるための政策 (クリックすると拡大できます)

小豆島の魅力を高める政策

医療と福祉


 まず医療と福祉です。医療と福祉の充実は、そこに住む人にとって不可欠なだけでなく、小豆島の魅力を高めるためにも必要です。 内海病院の充実強化が不可欠です。町長就任後まもなく内海病院魅力プロジェクトを立ち上げました。町民、医療スタッフ双方にとって魅力ある内海病院をどうつくるかです。人口規模の縮小が不可避で、予想される人口規模では島のなかに二つの公立病院が存在すれば、共倒れになってしまうことが心配です。ひとつのレベルの高い急性期の病院とすることが急務です。全国的な医師、看護師不足の中で、レベルの高い医療スタッフを確保するために必要なことです。病院の再編成は、島全体の医療福祉の供給のあり方をより良い方向のものに変えていくことにつながります。リハビリや慢性期疾患、高齢者介護のための施設などのあり方も決める必要があります。
 福祉についても見直しが急がれています。介護保険法によるサービスが大きな役割を果たしますが、それだけでは不十分です。小豆島の高齢化のスピードは著しく速く、小豆島の元気を保つには、これまでの延長線上の高齢者福祉では不十分です。ポイントは、高齢者の皆さんができるだけ元気に、健康で、社会で活躍してもらえる仕組みをどうつくるかにあります。介護予防などの取組みも重要です。地域ごとに、助け合ったり、見守りをするような、いろいろな取組みが必要になります。
 来年度予算では、地域の取組みが活発に行えるものにしたいと考えています。民生・児童委員の活動、自治会、社協、NPO、婦人会、老人クラブなどによるさまざまな地域の取組みに期待したいと思います。
 福祉分野では、児童虐待などの新しい課題も年々深刻化しています。障害福祉もまだまだ緒についた段階です。課題はたくさんあります。ひとつひとつ積み重ねていこうと思います。

 
医療と福祉

地域医療スピリットin小豆島2010

  教育  

 教育は、次代の小豆島を担う人材を育てる、ある意味では、最も大事な課題です。私は、身近にある小、中、高校を卒業したのですが、そのことが東京での仕事の大きな自信の源になりました。人間としての基礎学力を身につける小学校、切磋琢磨して勉学とスポーツで力をつける中学校、将来の目標を実現するための高等学校、それぞれの機能に応じて、あり方を考える必要があります。
 その意味で、高等学校をひとつにすることがまず急がれます。高校までは、特別の場合を除いて、身近な学校で学び、育つことが、小豆島のこれからを考えると大切だと思います。もちろん、その期待に応えられる学校のレベルであることが必要です。あわせて中学校の統合も考えていくことが求められています。
 小学校は、地域の力を高めたり、郷土愛を育むうえで、できるだけ身近な地域と密接に関わって子どもたちが育っていくことが重要だという視点を重視したいと考えています。
 池田中学校女子陸上部の香川県駅伝大会3連覇、小豆島高校女子陸上部の初の全国大会出場という嬉しいニュースがありました。学校の規模は小さくとも、やればできるのだということを私たちに教えてくれました。すべての面で、同じことが言えるのだと思います。

教育

地域医療スピリットin小豆島2010

地場産業

 小豆島は、醤油、佃煮、素麺、オリーブを始め、海の幸、山の幸に恵まれています。農林水産業を含め、地場産業が元気であることが、小豆島が元気であることの最大の源になります。さまざまな地場産業が元気であるためには、それぞれの企業家の皆さん、経営者、農林水産業に携わる皆さんのご尽力、創意工夫が重要ですが、応援する行政の姿勢もそれ以上に重要です。
 行政にできることとして、研究開発支援、情報基盤、交通基盤の整備などがあります、どれも町だけでできるものではなく、国や香川県などの知恵と力を借りなければなりません。  小豆島産業振興・環境技術会議を設置(平成22年9月13日設置)したのも、オリーブトップワンプロジェクトを設置(平成22年9月21日設置)したのも、そういう趣旨です。苗羽にある県の発酵食品研究所、池田にある農事試験場などとの連携強化を図っていきたいと考えています。  
地場産業

地域医療スピリットin小豆島2010

情報基盤の整備  

 情報基盤については、光ファイバー網の整備をしていくことが、産業振興だけでなく、医療福祉分野、観光、教育などいろいろな面で、島のハンディキャップを克服し、島の魅力を高めるために必要だと考えています。政府では、総合特区制度を来年度実施することとしており、情報基盤整備による「オリーブの島」安全・安心プロジェクトを内閣府に提案しています。採択されることは容易ではなく、政府の方針が不透明なところがありますが、ぜひ実現できたらと考えています。

交通基盤の整備

 交通基盤の整備も重要です。昨年10月7日に、瀬戸内海沿岸の19の市町のトップに集まってもらい、瀬戸内海の復権についての意見交換会を開催しました。海が栄え、海運が主たる交通手段であったとき、瀬戸内海の島々こそ都市でした。車が普及するなかで海運が衰退しようとしています。高速道路の無料化などの政策がそれを加速化しています。
 海の復権、瀬戸内海の復権のためには、航路の維持、発展が不可欠です。航路の維持、発展のためには、国の交通政策が抜本的に見直される必要があります。時間がかかり、実現可能性も不透明ですが、島嶼部の置かれた立場から国に対して粘り強く主張していきます。また、阪神航路の充実についても関係方面へ働きかけていきたいと考えています。小豆島全体の港のあり方についても、そろそろ関係者で、将来に向けてコンセンサスづくりが求められているように思います。
 島内の交通、公共交通の確保も、高齢者をはじめとする交通弱者、観光客にとって不可欠です。幸い自治会などが出資しできたオリーブバス株式会社の営業成績はまずまずのものになっています。さらなる営業努力が必要ですが、住民の皆さんには、公共の足を守るために、積極的に利用していただきたいと思います。
 
交通基盤の整備

地域医療スピリットin小豆島2010

観光の振興

 小豆島は自然、文化などでは、寒霞渓に代表されるように素晴らしい景観の資源に恵まれています。角田光代さん原作の「八日目の蝉」が映画化され、ゴールデンウイークには公開されますが、角田さんは小説で小豆島のことを「海と、空と、雲と、光と、木と、きれいなものぜんぶ入った、広くて大きい景色」と書きました。私もその通りだと思います。しかし、だから何もしないで、安泰かと言えばそうではありません。地域の活性化にもつながり、かつ、大勢の方々に訪れていただくために、さまざまな努力が必要です。
 一例として、三都半島では、三都半島を花とアートの半島にしようとの取組みが、地元の皆さんの尽力で活発に行われはじめています。芸術家村も定着してきましたし、今年も東京藝術大学と連携した夏の芸術展ができればと思っています。
 苗羽、馬木などの「醤の郷」も手づくりで本格的なものになってきました。福田、岩谷などの石切り場、石彫も世界的な価値があると言われています。中山地区の千枚田、農村歌舞伎などは島の誇りです。小豆島八十八ヶ所の遍路道も他にはないものです。壺井栄の描いた「二十四の瞳」の岬の分教場は、教育の原点になっています。来年は、木下恵介監督生誕百周年です。 「二十四の瞳」は時代が変わっても変わってはいけないものがあることを私たちに教えています。このように、磨きをかければならない価値ある宝物が小豆島にはいっぱいあります。これらをどう活かしていくか、政策の裏づけとなる条例の制定も含めて検討していこうと思っています。
 
観光の振興

地域医療スピリットin小豆島2010

研究と学びの島

 そのほか、香川大学など、大学との共同プロジェクトを広げて、小豆島全体が学びの島になればと考えています。小豆島は、すぐれた自然、景色、温暖な気候などに恵まれているだけでなく、高松や京阪神からも近く、人口3万人くらいがひとつの固まりになった離島です。かつ、教育の基盤、各種産業の基盤もすべて整っています。この条件を満たしているところは他に類がないと思います。
 今、帯状疱疹の研究プロジェクトが小豆島で行われていますが、これは偶然のことではなく、研究、研修の場として、小豆島以上のところはないと思います。
 例えば、香川大学ならば、教育学部の学校での実習を小豆島全域の学校で行えば、今以上の研究、研修の成果が得られると思います。農学部ならば、小豆島は、オリーブ、醤油など、研究テーマに事欠くことがありません。医学部は、内海病院を充実することで、地域医療を実践し、学べる一大拠点になるはずです。香川大学に限らず、小豆島というところは、研究や学びの場として大きな可能性があると思います。そのためにも情報基盤、交通基盤、教育基盤などの整備が求められています。  
 
研究と学びの島

研究と学びの島

まちづくりの主役

 まちづくりの主役は住民の皆さんです。22年度からNPO活動など、住民の皆さんの活動を助成支援する協働のまちづくり事業をはじめました。バスガイドのOGによるボランティアガイド事業、蛍の郷づくりなど、いろいろな事業が始まっています。こうした新しい地域活動について、もう少し分野ごとにきめ細かく展開できるようになればと願っています。子育て支援、高齢者支援、地域の文化活動、スポーツ活動など、いろいろなものが島を元気にするために不可欠だと思っています。
 小豆島が人口減少、少子高齢化の急速な進展という深刻な課題を克服して、元気でいられるためには、「島はひとつ」の視点に立って、考え、行動しなければ、どれも実現が難しいと実感しています。次代に宝物を引き継ぐための今の世代の責任のひとつだと思います。(平成23年1月1日)
 

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