町長の「八日目の蝉」記(平成28年12月分)

 私は小豆島に生まれ育ちました。18歳のときこの島を離れ、40年ぶりに島に帰ってきました。島に帰ってから新しい発見の日々です。この島には、今私たちが失いつつあり、探し求めている何か、宝物がいっぱいあります。
 平成22年の3月と4月に、NHKが「八日目の蝉」というドラマを放映しました。小豆島が舞台のドラマです。その後、映画化され、平成23年4月29日に全国ロードショーされました。蝉の地上での命は普通7日です。ですから、8日目の蝉は、普通の蝉が見ることができないものを見ることができます。作者の角田光代さんは、原作で、小豆島のことを「海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」と表現しています。そして、主人公である若い女性に、おなかの中の子に、この景色を見せる義務が私にはあると、語らせています。
 そこで、私は小豆島の「きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」を、これから町長の日々の仕事を通して訪ねてみようと思います。

第1836回 今年1年ありがとうございました


 今年最後の三連休を、大阪と京都で過ごしました。瀬戸内国際芸術祭をきっかけにお世話になっている関西在住のアーティスト、クリエイターなどの皆さんとの意見交換と全国高校駅伝に男女そろって香川県代表として参加する小豆島高校陸上部の応援が目的の出張でした。  
 小豆島町が、瀬戸芸に実質的に参加したのは、2回目の瀬戸芸2013からです。瀬戸芸は、もともと豊島、直島を中心に始められたもので、1回目の瀬戸芸2010では、小豆島町は王文志さんの作品があるだけでした。  
 最初の瀬戸芸の後、ある民間の方が、小豆島町でもアートの展開をと考え、瀬戸芸2010の参加作家でもあった京都造形芸術大学の椿昇教授を小豆島に招へいして、ご意見をうかがいました。
 このときの出会いをきっかけにして、小豆島町の瀬戸芸2013に向けた取組みが始まりました。椿教授には、関西を中心に活躍するアーティスト、クリエイター、建築家など、実に多様で、可能性のある皆さんを小豆島町に紹介していただきました。
 瀬戸芸2013によって、小豆島は元気になるチャンスをつかむことができたように私は思います。そして今年の瀬戸芸2016で、そのチャンスが少しでもかたちにできたとすれば嬉しいのですが、大切なことは、これから未来に向けて、私たちがどんな取組みをできるか、するかにあります。  
 この日、大阪で、アーティスト、クリエイターらの皆さんと、これからの課題や取組みについて、忌憚のない意見交換ができました。これからも、皆さんの知恵と力を借りながら、地道に、長く、取り組んでいこうと思います。そして、これからも、小豆島のフィールドが、アーティストやクリエイターらの皆さんにとっても魅力と可能性のあるものでありたいと思います。  
 この日の京都は、快晴で、とても暖かな1日でした。都大路を、母校の小豆島高校陸上部男女チームが走り抜けました。小豆島高校は、今年度で97年の歴史を閉じ、来年度から、小豆島中央高校としての新しい歴史を刻みます。その年に、陸上部の面々が、男女あわせての全国大会出場という快挙をなしとげてくれました。ほとんどの都道府県代表校は、どこかで名前を聞いた名だたる強豪校ばかり。留学生のいるチームもあります。そういうなかで、小さな島の、小さな県立の高校生が、男女あわせての全国大会出場です。物凄い緊張だったと思いますが、男子も、女子も、本当に健闘してくれました。特に、男子は、初出場で25位という大健闘でした。  
 今年1年いろいろなことがありましたが、わが小豆島は、選抜高校野球甲子園出場、男女あわせての都大路快走の高校生の活躍、小豆島中央病院のオープン、瀬戸内国際芸術祭2016の賑わいなど、大健闘できたように思います。来年もいい年であってほしいと願っています。このブログの読者の皆さんもよいお年をお迎えください。(平成28年12月28日)

今年は瀬戸内国際芸術祭2016が
開催されました

京都造形芸術大学の椿昇教授

初出場ながら25位と大健闘だった
小豆島高校陸上部男子

えんじ色のジャンバーを着た同窓生から
声援を受ける女子チーム

「小豆島高校」としては最後の大会に
各地から多くの方々が応援に駆けつけました

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第1835回 番外編アーカイブ⑨「信なくば立たず」


( 雑誌「年金と住宅」 平成10年10月号 厚生省水道環境部計画課長 塩田幸雄)  

「信なくば立たず」  
 資金管理課長を勤めたこの二年間は、年金積立金運用の歴史の中でも、記録に残る激動の時だった。小泉純一郎前厚生大臣の発言が契機となったが、機は熟しつつあった。担当者として、やるべきことはやったという満足感がある半面、これでよかったのだろうかという思いもある。いずれにせよ、その評価は歴史の批判をまつしかない。  
 今の日本はいろいろな意味で難しい時期を迎えている。右肩あがりの経済成長が見込めなくなったことが、最も大きな要因といわれる。経済面では、国をあげて、真剣な対策が講じられているから、なんとか再び堅実な成長の軌道に復帰することを期待したい。しかし、今、日本が直面している本当の問題は、当面の経済対策のような単純なものにとどまるのだろうか。  
 今の日本が、間違いなく衰退の徴候を示し始めているとすれば、そのひとつは人と人、家族、地域、組織などの信頼感が少しづつ、損なわれていっていることだと思う。自立した個人が、その能力を最大限発揮できるよう、競争原理・市場原理の徹底が強調される。そのこと自体に異論はない。しかし、その前提として、人と人、家族、地域、組織などの間に信頼感があることの方がもっと大切であろう。篤い人情、他人や家族や地域への思いやり、言い換えると、「私」のことだけでなく、「公」のことを考えること、「公」のために行動することの大切さを忘れないことが大前提になければならないと思う。  


人と人、家族、地域、組織などの間に
信頼感があることが大切です

 今、進行中の年金改革論議でも、公的年金の「公」の意味をもう一度噛みしめたいと思う。「公」的年金はなぜ生まれたのか。「公」的年金は何を目的として、何を実現しようとするものか。世代を超えて、全員参加で、互いに支え合うという、「公」的年金の根本精神こそ、少子高齢化が急速に進行し、衰退の兆しのあるこの国だからこそ、むしろこれまでに増して強調されなければならないのではないのか。  
 そんなことは当たり前と思う方いるだろうが、当たり前のことを、どうすれば我々は今確かめ合えるのだろうか。そして、当たり前のことが根づいている限り、時間はかかるだろうが、どんな厳しい改革であっても、我々は受けとめることができるだろう。  
 日本が必要としている本当の改革は、経済活力の再生のための改革などではなく、むしろ精神面での国柄の危うさから脱却して、人と社会の「信頼」や「共感」を回復していくことにあるのではないか。年金改革の出発点も、到達点もそこにあると思う。敬愛する小泉前厚生大臣は「信なくば立たず」とよく揮毫された。私もまた、この言葉を肝に銘じながら、粘り強く「公」務員稼業を続けていこうと思う。(平成28年12月27日)

(注釈)
 小泉純一郎厚生大臣の下での経験は忘れられないものです。今、年金積立金管理運用法人GPIFによる株式運用の是非が大きな問題になっていますが、この道筋をつくったのが、このときの小泉改革です。その改革の意義は、このエッセイで書いているように歴史の評価を待つしかありません。  
 そのことよりも、公的年金についてどう考えるかかが本質的なことです。「信なくば立たず」とは、論語にある言葉です。この言葉が、小泉さんが、最も好きな言葉であることは、余り知られていないかもしれませんが、政治の本質を突いたものだと思います。  
 弟子の子貢が、政治について尋ねたところ、孔子は「食料を十分にし、軍備を十分にして、人民には信頼を持たせることだ」と答えました。  
 子貢が三つの中でやむを得ず捨てるなら、どれが先か問うと、「軍備を捨てる」、さらに残った二つのうちではどちらかと問うと、「食料を捨てる」と答えました。  
 その理由を問われて、「食料がなければ人は死ぬが、昔から誰にも死はある。人民は信頼がなければ安定しない」と答えました。


「信なくば立たず」の言葉を肝に銘じながら
粘り強く続けていこうと思います

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第1834回 番外編アーカイブ⑧「遠距離介護」


 ふるさと瀬戸内海の小豆島で、87歳のひとり暮らしの母は、今老健に入っている。それなら、一安心ではないかと思われるだろうが、それが必ずしもそうではない。母は週末老健から外泊許可をもらっては、家に帰り、畑仕事などをしている。  
 老健は、中間施設で、家庭復帰を目指すものだから、その趣旨どおりの行動とは言えなくもない。しかし、母が在宅生活に戻ることは、面倒を見てくれる人が、誰かそばにいない限り、現実にほぼ不可能事である。母が週末に家に帰り、畑仕事をするのは、老健では得られない、母の生きがいと人間性を取り戻すためである。  
 母は、父が亡くなってからというもの、ずっとひとり暮らしである。祖母と父の老後をしっかりと看取ったのに、子どもは男の子ばかり、みんな都会に出ていってしまい、肝心の自分の老後は、誰も看取ってくれない。母は、畑仕事などに励みながら、時折テレビのニュースに僕が写るのを楽しみにし、励みとしていた。僕は、審議会などでは極力テレビカメラに写るよう努めたものである。
 ところが、昨年秋、母は体調を崩してしまった。病院には入り、点滴を受け体調は戻ったが、ひとり暮らしを続けられるほどには回復しなかった。そこで、老健のお世話になることにした。  
 

介護老人保健施設うちのみ

 老健に入るとすぐ母に異変がおきた。老健は、医療施設であり、健康管理が行き届く反面、さまざまな行動制約がある。母が大好きな卵ぼうろを食べてはいけない、人にあげてはいけないと注意され母はきれた。それからというもの、泣きながら電話で、施設を出たいと訴えるようになった。もちろん老健のスタッフは一生懸命ケアをしてくれている。  
そこで、たどり着いた結論が、できるだけ週末帰省して、母と家で過ごすという選択である。このことで、ようやく母はおだやかな日々を送れるようになった。老健を、このような形で利用することは、制度論としてはおかしいのかもしれない。しかし、制度にニーズを合わせるのではなく、ニーズに制度を合わすべきではないのだろうか。母のわがままではあるが、制度のあり方を考える上での根源的課題でもあるように思う。  
 頻繁に帰省することは、お金もかかるし、体力的にもきつい。しかし、東京の机上では見えないこと、見ることができないことを、いろいろ見ることができる。介護の課題は、世情言われるように介護従事者の処遇改善や施設を増やせば解決するというレベルの問題ではない。家族や地域社会のあり方をどう考えるか、人の生き方をどう考えるかなどとの関わりの方が深い。それらは、実際にそれなりに苦労し、悩み、現実に遭遇しなければ見えてこない。できることを少しでも模索し、実行していくしかない。  
 帰省は、母への恩返しであるだけでなく、何よりも、やさしいふるさとが、疲れを癒し、頑張れといってくれる。遠距離介護といえるほど立派なものではないが、しんどくても、それを続けることで、かけがえのないものを得ているように思う。(国保新聞「晴雨計」平成21年5月1日号)(平成28年12月26日)


介護の課題は、家族や地域社会のあり方、
人の生き方との関わりが深い問題です

(注釈)  
 厚生労働省退官後、福祉医療機構に勤めているころのエッセイです。国保新聞は、国民健康保険の関係者が読者であり、厚生労働省の政策立案者も意識して書いたものです。「老人保健施設」について、やや批判的に書いていますが、医療費を抑制する立場から、厚生労働省の政策は、厳しいものにならざるを得ません。政策が模索を続け、変わっていくことは止むを得ないことだと思います。地方自治体の立場からも、医療費の抑制と高齢者福祉の充実のバランスをどうとるかは、難しいテーマであると実感しています。  
 東京で仕事していたとき、支えであった母が、ふるさとに戻ったとき、もういません。母の介護と町長の仕事の両立は難しいことでした。7年前、ふるさとに戻ることを断念しようと決めようとした、まさにその日、母は息をひきとりました。母が「小豆島に帰りなさい」と決めてくれました。


医療費の抑制と高齢者福祉の充実の
バランスは難しいテーマです

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第1833回 番外編アーカイブ⑦「オリーブ百年 ふるさとのI君へ」


 あまり知られていませんが、今年は、日本にオリーブが植栽されて百年になります。明治41年(1908)国策により、全国の何ヶ所かで栽培が試みられたのですが、唯一小豆島でのみオリーブは成長し、身を結びました。温暖で雨が少なく、地中海に似た小豆島の環境がオリーブに合ったのでしょう。今年、小豆島では、オリーブ百年を記念してさまざまな催しが開かれます。  
 この小豆島こそ、私の生まれ育ったふるさとです。同じふるさと出身の壺井栄は、島を舞台にして『二十四の瞳』という岬の分教場に赴任した若い女教師と十二人の生徒の交流を描いた小説を書きました。壺井栄は、その分教場のあった村のことを、農山漁村の名が全部あてはまるような瀬戸内海べりの一寒村と書いています。実は、私はその分教場の本校にあたる小学校で学びました。  
 その小学校での私の仲良しの一人が I 君です。家が近くで、1年生から6年生まで同じクラス、よく一緒に登下校しました。I 君には知的障害がありました。中学校にも一緒にいくと思っていましたが、彼は中学には進学しませんでした。高松のどこかの施設にいったと聞かされたのですが、あのとき以来彼に会ったことは一度もありません。厚生省に入り、障害福祉の仕事をしながら、彼はどこにいって、何をしているのだろう。どうして、ふるさとにずっといることができなかったのだろうと、たびたび思いました。  

平成20年はオリーブ植栽100周年の年で
さまざまなオリーブに関するイベントが行われました

 私が島に住んでいたころには、島に知的障害者のための施設は1つもありませんでした。今は、2つの小さな作業所があります。障害保健福祉部長をしていたとき、その1つの作業所の所長が高校時代生徒の人気の的であったSさんであることを知らされました。そこで、帰郷したときは絶対にいかなくてはと思いながら、忙しさにかまけて、なかなか機会がありませんでした。  
 昨年の秋、ようやく機会があって、その施設を訪ねることができました。ところが、残念なことに、彼女はご主人の親の介護のため、すでに施設を退職し、島を離れていました。施設で活躍しているところの彼女の写真を見せてもらいながら、高校のころと同じようにみんなに人気があっただろうと想像しました。  
 今、日本はさまざまな問題をかかえていますが、本質的な課題は地域社会が衰退し、人と人との絆や連帯感が弱まっていることだろうと思います。かつては、貧しくとも、活気に満ちていた日本各地の農山漁村が、その活力を失おうとしています。私のふるさとの小豆島もその例外ではありません。どうすれば、もう一度地域の活力を取り戻せるのか、みんなが知恵をしぼっています。その1つは、日本唯一の産地であるオリーブをどう生かすかにあります。実は、本物の小豆島産のオリーブの生産量は限られていて、その生産量を増やすことが、何よりも不可欠なのです。オリーブは虫がつきやすく、育てるのに大変手間がかかるのです。  
 今、彼女の勤めていた作業所、社会福祉法人ひまわり福祉会「ひまわりの家」の仲間たちは、そのオリーブの栽培に取り組んでいます。応援の輪も広がろうとしています。I 君は、島を離れてしまったけれど、知的障害のある後輩たちは、島に残って、島の再生に貢献しようとしています。人の幸せはさまざまでしょうが、青い海、青い空、美しい山々、ふるさとで、素晴らしい人たちに囲まれて、普通に暮らせる幸せに勝るものはないように思います。(「サポート」平成20年1月号)(平成28年12月22日)

障がい者の方々による
オリーブの収穫体験のようす

(注釈)  
 厚生労働省退官後、障がい福祉の専門誌に書いたものです。私の、厚生労働省での仕事のうち、6年が障がい福祉の仕事でした。いつも思っていたのは、小学校6年間同級生で、仲良しだったI君のことです。このエッセイで書いたように、I君は、中学生になったころから、小豆島からいなくなってしまいました。  
 厚生労働省で、障害者総合支援法の元になる障害者自立支援法を立案しました。この法律については、厳しい批判と高い評価に分かれています。歴史の評価に耐える仕事をしたい思いで取り組みました。  
 自立支援法は、障がいの種類によって分かれていた制度、施策をひとつにし、サービスの選択、組み合わせができるようし、障がいを持つ人たちが、地域で働き、暮らせることを目指したものです。  
 この法律が目指したことを、小豆島で実現することが、I君のことを思い出しながら、ふるさとに戻ってきた私のミッション・使命ではないだろうかと思うこのごろです。

小豆島町障害者グループホーム
(グループホーム ソレイユ)

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第1832回 番外編アーカイブ⑥「ふるさとの話をします」


 「ふるさと」という言葉には、ことのほか深い意味があるように思います。
 ふるさとと言えば、普通、生まれ育ったところのことを思い浮かべますが、この言葉には、それを超えた意味があるように思います。私が生まれ育ったふるさと小豆島のことを書いてみます。
 壺井栄という作家がいました。彼女はふるさとが生んだ最も有名な人物です。代表作は「二十四の瞳」という、岬の分教場の女教師と十二人の生徒の交流を描いた小説です。  
 この小説は実話ではありませんが、彼女は、ふるさとの実際の光景を思い浮かべながら書いています。私の母は、その分教場の卒業生で、壺井栄の妹が教師でしたから、小説のモデルだったかもしれません。  
 壺井栄は、岬の分教場があった村のことをこのように書いています。農山漁村の名が全部あてはまるような瀬戸内海べりの一寒村、百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形に見せる役割をしている細長い岬のそのとっぱなにある…。  
 母は、その寒村の子沢山な漁師の長女で、しかも先妻の子だったので、尋常小学校を出ただけで、親が決めた相手(すなわち私の父)と結婚しました。亡き父は、私が中学一年生の時、地元の醤油会社を定年退職しました。退職金は八十万円たらず、しかし、生まれて初めて目にした大金でした。父は、生涯、平の工員でしたが、私の将来について期待を寄せ、人生で役立つさまざまなことを私に教えてくれました。かつて「おしん」というテレビドラマが世の涙をさそいました。ひとりの貧しい生まれの女性が、度重なる苦難を乗り越えてひとりの人間として成長していく姿を描いたものでした。あるとき、母は、自分の人生にはおしんよりも辛いときがあったとぽろりと言いました。  
 「二十四の瞳」は何度も映画化されていますが、最初の高峰秀子主演の作品を超えるものはないと思います。この映画にでているキャストの大半は地元の人たちです。亡き祖母もコトエという子の祖母役で出演しています。祖母は、先生を訪ねていなくなった子どもたちを探すシーンで、背中に一歳くらいの男の子をおんぶしています。このシーンを見ながら、あの男の子は私に違いないといつも思っています。  

高峰秀子さん主演の映画「二十四の瞳」
(C)松竹

 小豆島は、住んでいたころはそれほど思わなかったのですが、この島ほど、美しいところはないように思います。壺井栄が農山漁村の全部があてはまると書いたように、平凡ですが、青い海と青い山と青い空が同時にまわりに広がっています。農山漁村の全部があてはまるということには、凝縮された何か深いものがあるように思います。  
 母は、今も、ふるさとにひとりで住んでいます。八十五歳で要支援二。背中は「く」の字に曲がったまま。家のなかでは這って移動するほどです。それでも、朝から畑仕事にいきます。ときどき転んで骨にひびが入ったり、打撲をして、そのときは、近くの病院にしばらく「社会的入院」をさせてもらっています。  
 どんな人生が、立派なのかよくわかりません。世界をまたに活躍し、拍手喝采される人生も素晴らしいかもしれませんが、私の父や母のように、生まれ育った、ふるさとで、名もなく、質素に、生き抜く人生もまた素晴らしい人生であると思います。社会は進歩しているのでしょうが、大切なものをどこかに置き去りにしてきているのではと思います。「ふるさと」、そこに住む名もなき人々、その代表である父と母、そしてふるさとの自然が、人としての強さとやさしさを教えてくれたように思います。(「Active-300」平成19年12月号)(平成28年12月21日)

(注釈)
 厚生労働省を退官し、再就職先となった福祉医療機構のスタッフに自己紹介を兼ねて書いたものです。いつものように小豆島と母のことを書いています。小豆島で生まれ育ったことが、どれほど私の支えとなっていたかと改めて感じる文章ですが、いつも同じことを書いています。

「ふるさと」に住む父と母、そしてふるさとの自然が
人としての強さとやさしさを教えてくれたように思います

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第1831回 12月3週の週末


 土曜日朝、小豆島中央病院大会議室で、「小豆島の地域医療を守り育てる島民運動」の講演会がありました。大きな会場にびっしりの島民の皆さんが集まっていました。こんな日が来たかと感激です。
 この日は、小豆島中央病院地域連絡室の浅井副看護部長が、「地域医療連携について」話をされました。地域連携室は、小豆島中央病院と他の医療機関、介護福祉施設などをつなぐ役割を担っています。  
 小豆島中央病院を受診するとき、より高度の医療機関での医療とのつなぎ、退院後の在宅支援のサービス、介護福祉施設とのつなぎなど、とても重要な役割を担っています。  
 地域連携室が本来の役割を果たしていけるためには、普段から、高度専門医療機関、二次医療を担う小豆島中央病院、一次医療を担う診療所などとの役割分担と連携がとれていることが必要です。医療のなかの役割分担と連携だけでなく、医療と福祉の役割分担と連携も大事なことです。これまで小豆島では、必ずしもできていなかったと感じています。  
 福祉サービスの受け皿が十分でないと、病院が福祉施設のような役割を担わざるをえなくなります。そうなると、病院が本来の医療を行うことができなくなったり、経営が悪化します。小豆島中央病院ができるまでの小豆島の状況は、それに近いものだったと思います。  
 小豆島中央病院は、これから、どんどん本来の医療の役割を果たしていけるようになると思います。そのためには、医療スタッフの皆さんにがんばっていただくこと以上に、私たちも賢い利用者にならなければいけません。  
 小豆島の医療と福祉をよくし、小豆島中央病院をもっともっと良い医療機関にし、経営もよくするためには、在宅の福祉の受け皿をもっと充実し、地域連携室が目指す、医療と福祉、在宅生活とのつなぎをきちんとしたいと思います。  
 どうしたら、それが実現できるか、みんなで知恵を出し合い、具体的に行動を起こしたいと思います。「小豆島の地域医療を守り育てる運動」が、これからもどんどん広がってほしいと思います。  
 午後から、サンオリーブホールで開催された「しあわせづくり講演会」に参加しました。講師は、佐野有美さんです。佐野さんは、先天性四肢欠損症で生まれました。そのハンディを克服し、高校在学中、チアリーディング部で活躍し、高校卒業後、事務職を経験した後、本格的な講演活動を始めます。声をいかしてアーティストとしても活躍されています。  
 佐野さんは、お父さん、お母さん、お姉さんをはじめ、いろいろな人たちの交流や応援を楽しそうに話してくれました。そして、最後に、足の3本の指で、「ありがとう、笑顔、支え合い、絆」の四つの文字を書かれました。  
 「小豆島がどんな島であったらいいのか」とよく考えます。答えは、佐野さんが書かれた「ありがとう、笑顔、支え合い、絆」の四つの言葉に凝縮されています。(平成28年12月20日)

「小豆島の地域医療を守り育てる島民運動」に
多くの方が参加されました

小豆島中央病院地域連絡室の
浅井副看護部長

よりよい病院にするため、みんなで知恵を
出し合い、具体的に行動をしていきます

佐野有美さんによる
しあわせづくり講演会のようす

「ありがとう、笑顔、支え合い、絆」の
四つの文字を色紙に書かれました

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第1830回 「石がつなぐ小豆島と大阪城」~「残された石の声」展での徳島文理大学橋詰茂教授特別講演要旨~


 小豆島は古くから瀬戸内海交通の要衝でした。とりわけ、室町時代以降は、「海の時代」となりました。この時代、小豆島は塩の産地であり、小豆島にたくさんの輸送船が存在したと考えられています。
 小豆島は、天領の時代も長く続きましたが、古くは備前国、新しきは讃岐国の二つの国に属していました。
 徳川期大坂城築城の際、小豆島は石材の産出地となります。島内に数多くの石切丁場(遺構)が今も残っています。豊臣大坂城築城の際にも、小豆島の石材が使われたという伝説がありますが、そのことを立証するものは見つかっていません。
 江戸時代初期の小豆島は、幕府の直轄地でした。慶長10年(1605年)に幕府が命令してつくられた最初の国絵図が残されています。作成年が記されている絵図としては、日本最古のものです。作成に関わったひとの名前や縮尺もきちんと書かれています。伝統的な航海術を応用して作成されていて、小豆島の海運の技術の高さを証明しています。
 絵図は、11か国と1島分が現存しています。その1島とは小豆島のことです。それだけ幕府にとって、小豆島が交通や軍事の要衝として重要な島だと考えていたことを示しています。
 慶長小豆島絵図が、土庄町の笠井家に保存されています。この絵図は、大名が保管した写しではなく、幕府に提出された絵図の元になる下絵(控図)で、絵図の作成過程が読み取れる本物の絵図です。他の写しのなかには、国の重要文化財に指定されている絵図もあることから、重要文化財の可能性も秘めている極めて貴重なものです。
 この絵図は、当時小豆島を管理していた茨木藩主片桐且元の指揮の下作成されました。51の村々を四組(土庄、池田、草加部、北浦)に区分しています。
 おもしろいことに、この絵図は、上下が逆になっています。つまり備前側から見た描かれ方です。この当時の小豆島は天領ですが、讃岐国ではなく、備前国に近い存在であったことを示しています。
 慶長10年には、検地も実施されています。そのことを示す池田村検地帳(岡田家文書)が残されています。検地に伴い絵図が作成されています。したがって、かなり精度の高い絵図であることがわかります。小豆島のカタチをはじめて目にした島のひとたちは、どのような思いに浸ったのでしょうか。
 豊臣大坂城は、慶長20年(1615年)に落城し、豊臣氏は滅亡しました。徳川2代将軍の秀忠は、大坂城の戦略的意義を理解していて、元和5年(1619年)に、公儀普請として、西国大名48家に大坂城築城の命令を発します。石材の提供は、各大名にとって、過酷な重税そのものでしたが、幕府の絶対命令であり、競って石材を提供するしかありませんでした。
 大坂城の工期は、3期に分かれます。第1期が元和6年~9年、第2期が寛永元年(1624年)から3年、第3期が寛永5年、6年です。第1期は南を除く外堀の石垣、第2期は内掘と天守台の石垣、第3期は南外堀の石垣が築かれました。
 このころ、小豆島を統治していたのは、小堀政一(遠州)という大坂城作事奉行です。小堀は、小豆島の石切丁場を支配していました。各大名は、大坂に近く、良質の石が採れ、輸送船もある小豆島の石丁場を、小堀に願い出て、競って求めました。そのことを証する古文書(笠井家文書など)が小豆島などに残されています。最近になって、土佐の山内家が豊島で石を採りたいと小堀に願いでた古文書(細川家文書)が発見されています。
 現在、小豆島の石切丁場は、21か所が確認されています。なかでも筑前福岡藩(黒 田家)の天狗岩丁場などは、国指定史跡になっていて、その当時のままの状態で残されており、極めて貴重なものです。
 小豆島からどのように石を切り出し、どうやって遥か大坂の地まで運ばれたのかは謎に包まれていました。それが最近の地道な調査で少しずつ明らかになってきています。
 小豆島の岩谷地区の海中を調査したところ、大坂城の石垣と同じ角石が11個発見されています。石垣にとって重要な角を形成する巨石が集中して発見されたことは、学術的にとても意義深いことです。福田の鯛網代(たいじろ)丁場では、藤堂家の刻印がはじめて発見されました。大坂城築城の普請奉行をつとめた藤堂家の採石を明らかにする貴重な証拠です。
 藤堂家の文書によると、巨石を手加子(船員)30人、船2艇で運んだことが記録されています。小豆島の海岸から船で大坂まで運ばれた巨石は、大坂城近くの伝法(大阪市此花区)や八軒家(大阪市中央区)に陸揚げされたこともわかってきました。現地調査の結果、伝法の公園には、川から引き上げられベンチとして再利用されている刻印石が5個確認されています。
 石材の大きさや輸送料などを記載した古文書の存在も最近になって明らかになっています。藤堂家の記録によると、石の大きさは、長さが一丈三尺(約4m)、石の面(つら)が3尺5寸(約1m)とあり、その船賃は、銀で68匁(約255g)と記されています。関東では金が貨幣の中心でしたが、関西では銀が貨幣の中心でした。金と銀を交換するために登場したのが両替商と呼ばれるひとたちです。
 こうした古文書をきちんと保存し、内容を解明し、整理することは、とても大切なことです。
 ところで、大坂城築城の残石がどうなったかです。黒田家では、石切丁場の価値が重要と考え、岩谷丁場に七兵衛屋敷を設け、島外に石材が持ち出されないよう、明治時代にいたるまで、監視を続けました。そのおかげで、岩谷丁場は、当時の丁場の臨場感がそのまま残されています。  
 一方、その他の丁場では、そのような措置がとられませんでした。その結果、小豆島の石材が商売用など、いろいろなかたちで活用されています。
 例えば、寛永9年(1632年)に改易となった熊本の加藤家の石切丁場は、土庄村の庄屋が管理することになります。その後、大坂、京、江戸のまちづくりを進めるために小豆島の石が搬出されました。江戸の山王社、大坂の住吉大社、京の五条大橋などです。五条大橋には、小豆島の石が使われたことが記されています。天下太平の世が訪れると、石は軍事用から産業としての顔をもつようになり、石の商丁場が誕生し、大坂商人が活躍するようになっていきます。  
 小豆島にはたくさんの残念石が残されています。石には、各大名の刻印が残されています。大坂城の積まれた石にも刻印があります。各大名は、大坂城のよりよい位置に、自分たちの石を積み上げようとしました。幕府への忠誠を明らかにするとともに、各大名の名声にもなったからでしょう。  
 小豆島の石の文化は、日本だけでなく、世界に誇るべきものです。この素晴らしい小豆島の文化を守りその魅力を磨いて、後世に伝承していきたいものです。  
 これからも海と山の両面からの調査や古文書などの文献調査を内外の力を借りながら進めていきます。(平成28年12月19日)


徳島文理大学橋詰茂教授による
特別講演のようす

小豆島石丁場一覧
(クリックすると詳細が表示されます)

島内には数多くの石切丁場が残っており
矢穴が開いた残石も多く残っています

香川県指定文化財
「慶長小豆島絵図」(笠井家蔵)

慶長10年小豆島池田村検地帳
(岡田家文書/小豆島町教育委員会蔵)

大天狗岩が残る
国指定史跡「天狗岩石丁場」

徳島文理大学による海中調査

大坂城用残石 番屋七兵衛屋敷跡

天狗岩石丁場で確認できる
黒田家の刻印

世界に誇る素晴らしい石の文化を守り
その魅力を磨いて、後世に伝承していきます

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第1829回 番外編アーカイブ⑤「ふるさとの温もり」


 東京にやってきて二十年以上になる。もうふるさとよりも長く住んだことになる。子供たちには東京がふるさとだ。東京は、いろいろ顔をもっていて、結構、魅力にあふれている。東京は、ふるさととしても、捨てたものではない。
 今、NHKの「ふたりっ子」という連続ドラマを楽しみに見ている。庶民の生活の現場を生き生きと描き出すこのドラマの舞台は豆腐屋で、隣近所には散髪屋やたこ焼屋や銭湯などがある。この風景は、この二年間担当させていただいた「環衛業」の風景でもある。
 「環衛業」と言うのは、理・美容店、銭湯、飲食店、旅館など、生活に関わりの深い業種の総称である。環衛業は、地域社会の真ん中にあって、地域の人々の喜怒哀楽とともに、どっこい生きている。たくさんの「環衛人」にお会いして、貴重な経験をさせていただき、思い出は尽きない。
 僕の環衛業のイメージは、テレビドラマの舞台のように、人と人が触れ合って生きているふるさとである。ふるさとの神髄は、思いやりと人間臭さ。ふるさとの日常生活を支え、自分の腕と才覚で時代の流れを生き抜いていく。
 与党にも野党にも環衛業を応援する議員連盟がある。族議員という言葉にはマイナスの意味合いが込められていることが多い。しかし、環衛業を応援する人々の姿勢のなかに、僕は政治の原点のようなものを感じていた。
 日本の社会には、人々の心をほっとさせる温かさがある。地域社会に根づいて生活を営む人々が支えている。環衛業もそのひとつだろう。環衛業を応援する人々が守ろうとしているのは、こうした日本の社会の伝統的な強さである。新しい時代のこの国のかたちを作るばかりではなく、時間をかけて受け継がれた伝統的な価値観を大切にすることも、政治の大切な作業である。
 母が住むふるさと小豆島に時折帰省する。老いた母は、昔のままに息子の好物を用意する。息子は、ほとんど喋らず「また帰るから」と言って別れる。ふるさとの温もりは、僕の人生の出発点であり、到着点でもある。(週刊「社会保障」平成8年12月2日号「交差点」)(平成28年12月16日)


[「ふるさとの温もりは、僕の人生の
出発点であり、到着点でもある」

(注釈)
 平成8年に厚生省生活衛生局指導課長から年金局資金管理課長に異動したばかりの時に書いたエッセイです。指導課長として、さまざまな分野の民間の方々、国会議員の皆さんと交流できたことが、その後の私の大きな財産となりました。やはり母のことを書いています。最後に、「ふるさとの温もりは、僕の人生の出発点であり、到着点である」と書いていますが、今も何も変わっていません。とにかく進歩していません。
 ところで、年金局資金管理課長というポストは、140兆円もの年金積立金をどう運用するかという、途方もない仕事でした。このエッセイを書いた後、小泉純一郎厚生大臣が登場し、「年金福祉事業団解体」と「年金資金運用の抜本見直し」をテコに、「郵政解体」を主張します。私の資金管理課長としての日々は、緊張に満ちたものになります。
 年金の積立金は、大蔵省の資金運用部に預託されており、郵貯の資金も同じように資金運用部に預託され、その財源が財政投融資の財源になっていました。つまり年金資金を資金運用部に預託しなくなれば、郵貯も預託できなくなり、郵貯が民間銀行と同じ競争条件になることで、「郵政解体」につながるという論理です。
 後に、小泉さんは、総理として「郵政解体」を実行しますが、その布石を厚生大臣のときに見事打っていたのです。その黒子役を担当課長としてさせてもらったことは、私のかけがえのない経験になりました。小泉総理・厚生大臣には、「政治家とは何か」について教えていただきました。いつか、そのことを、このブログで書いてみたいと思います。


小泉純一郎さんには、「政治家とは何か」に
ついて教えていただきました

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第1828回 番外編アーカイブ④「母の喜び」


 父が一昨年亡くなってから、母は田舎の古びた家で一人住んでいる。幸い、まだ健康だから、畑仕事をしながら、比較的元気に暮らしている。
 母は、壺井栄の「二十四の瞳」の舞台である小豆島の漁村で生まれた。岬の分教場で、昭和のはじめに、壺井栄の妹に教わったというから、「二十四の瞳」の生徒そのものかもしれない。
 かつてNHKドラマ「おしん」が評判になったが、母が「自分の人生も『おしん』のようだった」と言うのを聞いたことがある。貧しい漁師の子だくさん一家の長女として、つらいことが多かった。父と結婚してからも、何かと苦労が多かった。
 母には、週に一度は電話をするようにしている。ところが、時々電話にでないことがある。そんな時は、心配になるが、あとで聞くと「老人クラブのコーラスの集まりにいっていた」と言う。父が生きていた時には、こんなことはなかったから、新しい自分を見つけたのかもしれない。その時から、「老人クラブは保守的だ、頑迷だ」という、行政関係者の批判をにわかに信用しないことにしている。


母は、壺井栄の「二十四の瞳」の舞台である
漁村で生まれ、岬の分教場に通いました

 仕事の関係で、先日、大阪で行われたシンポジウムにパネラーとして参加した。その模様を新聞が写真入りで大きく報道した。その新聞を、 京都に住む姪が見つけて母に送った。それを読んで母が喜んでくれた。名もない無学の母にとって、自分の息子の新聞記事は嬉しいことだった。
 私も、今、三人の子供の親になった。母の時代とは違うが、妻も奮闘している。わが子供たちも、私が母から学んだように、その姿から、人間が生きることの意味を自然に学んでいくだろう。
 今年は国際家族年だというが、家族のふれあいや助け合いの大切さ、そして、そのなかでの母の存在の大きさを改めて感じるこのごろである。(週刊「社会保障」平成6年2月17号「交差点」)(平成28年12月15日)

(注釈)
 平成6年に社会保障の専門週刊誌に書いたエッセイです。特殊法人の社会福祉医療事業団長寿社会福祉部長でした。民間の福祉関係者の応援、連携、交流が仕事でした。
 このころからエッセイを依頼されることが多くなりました。書くことは、決まってふるさと小豆島と母のことでした。今後紹介するエッセイでも専ら母のことを書いています。母の生き方を見ながら、社会や高齢者福祉のあり方を考えてきたようです。


母の生き方を見ながら、社会や
高齢者福祉のあり方を考えてきたようです

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第1827回 12月2週の週末


 土曜日の朝、小豆島こどもセンターの生活発表会を覗きました。ホールいっぱいに大勢の父兄が集まって、お子さん、お孫さんの発表を見守っていました。お子さん、お孫さんがすくすく成長されることを祈りたいと思います。
 その後、すぐそばで建設中の小豆島中央高校の建物を視察しました。思った以上に、新高校は大きく、物理、化学、生物、福祉、家庭教育、情報など、専門分野ごとの教室、武道場、相撲の土俵などもある体育館など、配慮の行き届いた校舎でした。
 生徒数の減少するなかで、県下でも、例外的に、統合ではなく、新高校設立というかたちをとり、校舎新築を進めた香川県教育委員会の新高校への思いを強く感じることができました。
 校舎の回りの景色も抜群です。前面に瀬戸内海が広がり、屋島とエンジェルロードを望むことができます。もうひとつの面からは、池田の山々、西の滝を望みます。
 この素晴らしい教育環境をどう活かしていくか、私たち島民の真価が問われます。島の最高学府に相応しい学び舎で、これから何十年にわたり、たくさんの生徒たちが、しっかりと学び、成長し、巣立っていけるよう、全力を尽くさないといけないとの思いを強くしました。
 人口が減少する下での厳しい課題をどう克服するか、新しい高校と、この4月にできた小豆島中央病院とあわせてみると、私たちの小豆島は、例外的にすごいチャンスを国と香川県からもらっています。
 人口が減少し、厳しい財政の下で、医療、福祉、教育という「共通的社会資本」が、小豆島では整いつつあります。この恵まれた状況をフルに活かしたいと思います。「人口減少時代の社会のあり方」のモデルを、是非とも小豆島でつくっていきたいと思います。島民の私たちは、これだけのものを、国や香川県から特別にいただいたことを感謝し、真剣に取り組まなければいけないと改めて思いました。
 夜は、小豆郡手をつなぐ育成会の忘年研修会と小豆島町消防団の忘年会に出席しました。今年、育成会の皆さんは、小豆島に特別支援学校をつくるという希望を、一歩も、二歩も進めることができました。香川県の教育委員会の専門家会議が、小豆島での特別支援学校の必要性を提言する報告を11月にまとめてくれました。
 いよいよこれから、小豆島の福祉をどうするか、障がいがあっても、誰もが小豆島で暮らしていける、「やさしく希望のいっぱいある小豆島」をつくっていく取組みがはじまります。
 日曜日は、安田出身の村崎サイさんが創設した徳島文理大学文学部文化財学科の皆さんが、オリーブナビで小豆島の石の文化を紹介した「残された石の声」展を開催し、オープニングで小豆島出身の橋詰茂教授が、「石がつなぐ小豆島と大阪城」をテーマに特別講演をしていただきました。とても内容のある講義でした。整理してあらためて紹介したいと思います。夜は、二生地区の町政懇談会に臨みました。この日で全12公民館での町政懇談会を終えました。(平成28年12月14日)

小豆島中央高校の中庭
広く、開放感が感じられます

小豆島中央高校の長い廊下
専門分野ごとの教室などが並びます

校舎からは瀬戸内海が広がり
屋島とエンジェルロードを望むことができます

特別支援学校設立に向けて
署名活動を行っていました

橋詰茂教授による「石がつなぐ小豆島と
大阪城」をテーマとして特別講演

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第1826回 四国デスティネーションキャンペーン小豆島観光商談会


 この日、サンオリーブホールでの劇団道化座の「大根の葉」の小学生公演を終え、急いで化粧を落として、福田港からフェリーに乗って大阪に向かいました。
 公演の終わりに、道化座の主宰者である渡辺晶子さんが、こどもたちに「優しい心は、強い心に宿ります。強い心と優しい心を小豆島のこどもたちの皆さんは持ってほしい」と語りかけてくれました。
 大阪市では、大阪方面の旅行代理店、航空会社、船会社、メディアなどの観光業者の皆さんに集まっていただいての、小豆島観光の説明会がありました。小豆島から、私と土庄町長のほか、ホテル、観光施設、運輸関係などのメンバーが参加しました。
 来年4月から6月にかけてJR四国では、全国のJRグループとともに、四国観光を、地元自治体、観光関係者などとともに四国4県が力をあわせて「しあわせぐるり、しこくぐるり。」のキャンペーンを展開します。わが小豆島も四国の一員として参加します。
 観光というと、ほっておいても観光客が集まってくるように思いがちですが、実は、そんな甘いものではありません。観光地同士で激烈な競争が行われています。もちろん、それぞれの地域が持つ本質的な魅力を磨いて、訪れた皆さんに満足していただくことにかかっています。そのことを前提にして、観光に携わる皆さんが、この日の商談会のような地道な努力を積み重ねていることを、島民の皆さんはあまり知らないと思います。
 観光商談会は、翌日は、東京に会場を移して行われました。大阪会場以上に100名近くの方が参加され、盛り上がりました。大阪会場と東京会場、両方で感じたことは、小豆島観光と言えば、小豆島の我々が頑張らなければいけないことは当然なのですが、小豆島の島外の皆さんが、熱をこめて小豆島を愛し、PRしてくれたことです。
 例えば、JR四国も、航空会社も、トップの方から担当の方まで、何度も小豆島を訪ねてくれています。両日の説明会でも、島外の皆さんの心のこもったメッセージが一番説得力があったように感じました。香川県の青年会議所と香西志帆監督のショートムービー「しまこと小豆島」も観ていただきました。初主演の吉田まどかさんと田中美里さんが小豆島の素晴らしさを見事に表現してくれています。皆さんに感謝、感謝です。
 東京では、宮内庁に立ち寄りました。厚生労働省の後輩の侍従を訪ねました。小豆島オリーブ公園に昭和天皇が昭和25年にお手播きされたオリーブの木がすくすくと育っています。樹齢60年を超える風格のある木です。今年も、周辺のオリーブの木が病害虫に苦しむなかで、オリーブの実がたわわに実りました。
 後輩の侍従は、厚生労働省などで障がい福祉の分野の仕事を数多く経験しており、これからの障がい福祉についても話がはずみました。皇室と宮内庁の皆さんの作品展をしており、特別に鑑賞できました。一般公開はされていないとのことで、この上ない機会となりました。(平成28年12月13日)

四国デスティネーションキャンペーン
小豆島観光商談会が大阪と東京で行われました

四国4県が力をあわせて「しあわせぐるり、
しこくぐるり。」のキャンペーンを展開します

観光に携わる皆さんが、この日の商談会の
ような地道な努力を積み重ねています

小豆島の魅力が凝縮された
ショートムービー「しまこと小豆島」

小豆島オリーブ公園にある
昭和天皇がお手播きされたオリーブの木

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第1825回 「大根の葉」小学生上演会


 今年は、壺井栄50回忌の年でした。栄を偲んで小豆島町では、さまざまな取組みをしてきました。そのフィナーレとして、神戸市の劇団道化座の皆さんに、栄が39歳になっての処女作といわれる「大根の葉」を、町内の全小学生を対象に上演してもらいました。
 「大根の葉」は、小豆島に住む貧しい農家の母親が、目が不自由な女の子の目を何とか手術をして直してあげようと奔走する姿を描いています。女の子に「けん」という名前の兄がいます。
 兄は、小学生の低学年の年齢くらいです。母と妹が神戸の病院に入院するたびに、親戚に預けられます。ひとりぼっちの「けん」は、友だちのいじめにあったりしますが、寂しさに耐えていきます。
 親戚の農家の皆さんも貧しさのなかで、なんとか母の願いが叶うようにと応援します。あの時代、本当に小豆島の人々が、栄が書いたように、あたたかさややさしさに満ちていたかどうかは知るよしはありませんが、栄がそうであってほしいと願っていたことは間違いないと思います。
 小豆島の子どもたちに、栄が訴えたかったことを、本物の演劇、レベルの高い演劇を通して、考えてほしいと思いました。とくに「けん」の立場になって、自分ならどうだろうと考えてほしいと思いました。
 ところが、劇団道化座の主宰者である渡辺晶子さんの脚本には、「けん」役の子どもが登場しません。こんなに難しい「けん」を演じることができる子役などいないからです。そこで、渡辺さんは、「けん」役はなしで、まるで「けん」がそこにいるように役者の皆さんに演じてもらおうと考えました。
 開演の前に、そのことを、小学生に説明しておかないと、子どもたちの頭が混乱してせっかくの内容を理解してもらえないことが心配でした。渡辺さんから、町長の冒頭のあいさつで、そのことをそれとなく話しておいてくれたらと言われました。
 そこで、私はどう説明してよいかと思案しました。私も、最初この演劇の稽古を見たとき、「『けん』役の方はどこにいますか」と聞いたくらいです。思案の結果、午後の本番では、こう説明しました。
 「この劇では、『けん君』は『透明人間』です。でも、きっと、皆さんには見えると思います」。この説明でよかったかどうかわかりませんが、午後の公演の方が、小学生の反応が最初から、とてもよかったと聞きました。
 ところで、この劇に、私は、「けん」を激励する農民のちょい役で出演させてもらいました。ほとんど地の演技そのもので、恥ずかしいレベルですが、とても楽しく、「けん」を思う農夫になりきることができました。
 というのは、劇団道化座の中心になって活動を始めたメンバーの渡辺さんともうひとり中川順平さんが、私と全くの同級生とわかり、しっかり意気投合したからです。息もぴったりで、私がどう演じようと、きちんと受け止めてもらえることがわかったので、本当に気楽に演じさせてもらいました。
 皆さんには迷惑だったと思いますが、いい経験をさせてもらいました。私は、子どものころから引っ込み思案で、学芸会などではいつも逃げまわっていました。その私が、この年になって、演劇に出ることができました。チャンスをいただいた道化座の皆さんに感謝します。(平成28年12月12日)

今年は壺井栄50回忌の年で、
さまざまな取組みを行いました

町内の小学生を対象に劇団道化座による
「大根の葉」が上演されました

劇団道化座の主宰者である
渡辺晶子さん

渡辺晶子さんの脚本には
「けん」役の子どもが登場しません

私も「けん」を激励する農民の役で
出演させていただきました

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第1824回 12月1週の週末<続>


 日曜日雨が心配でした。小豆島駅伝の日だからです。朝幸いなことに、晴れ空でした。なんと今年で57回目。小豆島中の地域から34チームが出場します。地域をあげて競い合います。
 こんな駅伝が57年も続いているところは、そうはないと思います。大したことです。全国大会に出場するレベルの選手から、えっ、この人がという人まで、実にいろいろな選手が出場しています。
 中学生もいれば、女性ランナーも、65歳のランナーもいます。今年は、外国人女性の英語教師も参加されていました。どの区間に、どんなランナーが走ってもいいのだそうです。
 土庄町吉ケ浦から小豆島町坂手まで8区間18.85キロを、272人のランナーがタスキをつなぎました。優勝したのは、安田Aチームで、3年ぶり29度目という強豪チームです。
 私は、最後のタスキの受け渡しのある馬木付近で見学したのですが、その時点で安田Aチームは3位でした。アンカーは、小豆島高校陸上部2年の向井悠介君でした。カモシカのような足をしています。今月25日の全国大会でも活躍が期待されています。流石の彼でも追い抜くのは無理だと思うくらい、首位の苗羽Aチームに離されていたのですが、見事に駆け抜けました。都大路でも活躍してほしいと思います。
 瀬戸内国際芸術祭2016は、「食」をテーマのひとつにしていました。地域の文化は、「食」に凝縮されるといわれます。地域の元気につながる「食」の取組みをと、瀬戸芸の総合ディレクターの北川フラムさんは、「『食』のフラム塾」を始めました。
 その塾生である岸本等さんは、瀬戸芸の期間中、壺井栄の作品に登場する小豆島の「食」を再現する「本から生まれる一皿~壺井栄と庚申の夜」を企画し、見事にやり遂げました。その報告と今後の展望をご夫婦で話に来られました。プロジェクトに参加されたすべての皆さんに感謝し、お二人のこれからの活躍と取組みを楽しみに期待しています。
 午後からは池田地区の町政懇談会に出席しました。全部で12ある町内の公民館を順番に訪れて、町民の皆さんの意見を聞かせてもらっています。この日も、いろいろなご意見を聞かせてもらいました。
 夕方、アジアのアーティストのプラットフォーム「福武ハウス」の打ち上げ会が、福田公民館でありました。福田地区の皆さんの取組みにも大感謝です。福田の取組みから、日本と世界を救う、新しい国際交流が育っていくように思います。
 夜、小規模多機能施設「はまひるがお坂手」の竣工祝賀会がありました。開設される平井潔先生をはじめ運営にあたられるNPO法人「三都の浜」の皆さん、設計をされた建築家o+h建築事務所の大西麻貴さんと百田有希さん、地元坂手の皆さんなどが集まりました。
 この瀬戸芸をきっかけに始まったこのプロジェクトには、坂手の地域の活性化、高齢者、障がいを持つ皆さん、こどもたち、地域の皆さんの交流と活動の拠点、アーティストなどとの交流など、さまざまな思いが込められています。お隣にある「遊児老館」と「はまひるがお坂手」がつながるこのプロジェクトのことは、また改めて書きます。(平成28年12月9日)

第57回小豆島駅伝競走大会の
スタートのようす

3年ぶりに優勝した安田Aチーム

壺井栄の作品に登場する小豆島の「食」を
再現する「本から生まれる一皿
~壺井栄と庚申の夜~」

池田地区の町政懇談会のようす

アジアのアーティストのプラットフォーム
「福武ハウス」

坂手に開所した小規模多機能施設
「はまひるがお坂手」

高齢者、子ども、障がい者、地域の方などの
交流と活動の拠点「遊児老館」

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第1823回 12月1週の週末


 小豆島高校の閉校式がありました。小豆島高校97年の歴史が本年度末で終わります。
 閉校式には、現役の生徒の皆さんとたくさんの卒業生が体育館に集まりました。私からも挨拶をしましたが、岩澤校長先生や谷元錦風会会長の挨拶もとても感動的なものでした。
 とりわけ卒業生の高橋薫子さんのリサイタルは圧巻でした。選曲も、終わりではなく、始まりという、未来に向かったものでした。アンコールで歌われた「ふるさと」に思わず涙しました。
 夕方から息抜きで仏生山に行きました。ここにしゃれた銭湯があります。日頃の疲れを癒しました。仏生山には「琴電」に乗っていきます。私は、実は、「琴電」ファンです。
 小豆島と仏生山と「琴電」は、無関係ではないかと考えるかもしれませんが、実は、つながっています。仏生山の古いまちなみとアートの雰囲気を楽しみ、「琴電」に揺られて、瓦町周辺で美味しい魚料理を食べたり、瓦町フラッグの書店、ショップなどに立ち寄り、次は、船に乗って、小豆島を訪れるというのは、かなり贅沢な1日の過ごし方です。小豆島と香川本土をつなぐ「観光」に大きな可能性があると、いつも感じています。
 「琴電」の電子カードのイルカカードは、小豆島オリーブバスでも利用できます。そのイルカカードで、朝一番のフェリーに乗り、「琴電」の運営する高松空港行きバスに飛び乗ると、東京行きの朝一番の飛行機に乗ることができます。
 小豆島と東京を日帰りで行き来できる時代になっています。いろいろな事情があってか、11月に、朝一番のちょうどよいバスに時刻変更があり、一番機に間に合わないことになりました。
 それは困ったと、「琴電」の真鍋康正社長さんらにお願いをしたら、こころよく小豆島のフェリーの到着を待ってのバスを、12月から復活させていただきました。真鍋社長は、まだ40歳という若さです。若い世代の皆さんが、新しい可能性を切り開いてくれるのだと思います。
 お聞きしたら、先日「しまこと小豆島」という小豆島をPRしたショートムービーをつくってくれた高松JCの川畑亮さんと監督の香西志帆さんと真鍋さんは、高校の同級生だそうです。同級生の皆さんが、小豆島のことを大切にしてくれています。感謝の気持ちでいっぱいです。
 香西さんの作品に「猫と電車」があります。もちろん電車は「琴電」のことです。猫と電車が大好きな女の子のいろいろな出会いをテーマにしたものでした。人と人の出会い、つながりほど大切なものはありません。(続く)(平成28年12月8日)

小豆島高校閉校記念式典

卒業生の高橋薫子さんのリサイタル

小豆島オリーブバスでも利用できる
電子カード「IruCa(イルカ)カード」

「しまこと小豆島」を制作に携わった
高松JCの川畑さん(左1)、香西監督(左3)

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第1822回 番外編アーカイブ③「東京からふるさと苗羽に」<続>


 大学を卒業して厚生省に入りました。東京は、高校の修学旅行と早稲田大学受験の時に来たことがあるだけで、田舎っぺが都会に来たという感じで、自信は余りありませんでした。北九州市に出向した3年間を除いて、あれからずっと東京に住んでいることになります。都会人としてはなかなか洗練されませんが、東京にいる多くの人も地方出身だし、故郷のあることは、いろいろな意味で支えでもあるし、仕事を進める上での発想や自己アピールの上で強みですらあります。
 厚生省では、これまで福祉、医療、環境、年金など、さまざまな仕事をしてきました。明確な目的意識もなく、ただ中央省庁に入りたいと思って入省したにすぎないのですが、高齢社会の到来を控えて、厚生省の存在価値が高まるなか、選択が正しかったことを嬉しく思います。これまで、それぞれのセクションにおいて、自分なりの仕事をすることができたと思いますし、これからも自分の能力を活かした仕事をしていきたいと思っています。

厚生省の分野の仕事をできたことが
本当によかったと思っています

 今年の10月、香川県で「ねんりんピック」が開催され、内海町では、三世代交流マラソンが開催されました。開催の時点で担当を離れていましたが、しばらく「ねんりんピック」の仕事をしていました。高齢化はどんどん進んでいますし、苗羽もその例外ではありません。母を郷里に残して、東京でいくら格好いいことを言ったところで、現実の高齢化のさまざまな問題を解決する力をもっていません。故郷にいる方々に、全国どこに行っても負けない、苗羽の福祉のまちづくりをお願いするしかありません。
 三世代交流マラソンは、全国各地から選手が集まり、抜けるような秋晴れの下で、行われました。その模様が全国に向けてニュースで紹介されました。故郷の便りほど、故郷を離れている者を勇気づけるものはありません。故郷、苗羽を心に想いながら、東京の地で、頑張っている今日この頃です。(「苗羽の今昔」平成7年)


東京にいても、いつもふるさとのことを思って
仕事をしていました

  (注釈)
 ふるさとの苗羽地区が郷土史「苗羽の今昔」を編纂することになり、頼まれ書いたエッセイです。はじめて本省の課長になった年です。42歳でした。
 本省では、課長という名のポストについてから、官僚としての本当の仕事が始まります。なぜなら、その分野について、日本のなかのたった一人の責任者で、責任は重く、その分野が、よくなるかも悪くなるかも、課長の働きぶりにかかっているからです。
 生活衛生局の指導課長というポストでした。理容店、美容店、クリーニング、公衆浴場、飲食、旅館、お寿司屋、映画館など生活に密着したお店を応援する仕事でした。このポストの仕事は、民間で活躍する皆さんと直接現場で会ってお話しを聞き、皆さんの課題を、ひとつひとつ、政治家の皆さんの知恵と力を借りて解決していくことでした。この2年間の経験が、町長になっていく原点にもなりました。
 苗羽で育ったことが、小豆島と言いかえてもいいのですが、僕の人生の支えと誇りになっています。東京にいても、いつもふるさとのことを思って仕事をしていました。ただ、何となく、というより、成績からして厚生省を選ぶしかなかった、その当時、厚生省はまだ重要な省庁として位置づけられてなく、私の成績でも入れたのです。厚生省の分野の仕事をできたことが、本当によかったと思います。
 これから、このアーカイブで、書いたものを順次紹介していきますが、この「苗羽の今昔」の繰り返しばかりの文章です。それほどに、ふるさと小豆島と、名もない庶民に過ぎなかった父と母の影響を受けていきたのだと思います。(平成28年12月7日)

「苗羽の今昔」エッセイ
(クリックすると詳細が表示されます)

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第1821回 番外編アーカイブ②「東京からふるさと苗羽へ」


 ふるさとを離れて25年になります。苗羽には高校を出るまで住んでいましたから、もう外の生活の方が長くなりました。しかし、どんなに長くなっても、苗羽をちょっと離れて東京に来ているだけというのが実感です。
 高校を卒業して、故郷を離れる時は、期待に胸が踊るというよりも不安な気持ちでした。というのも希望した大学受験に失敗し、浪人生活が始まるからでした。幸い、京都に住んでいた兄のところに居候させてもらうこととなり、兄の存在が浪人時代の支えとなりました。今から考えると、浪人生を手元に置いて、兄はよく辛抱したものだと思います。頭の上がらないことです。
 次の年、希望の京都大学に入学することができました。父と母は何度も神社にいって合格祈願をしてくれていたそうです。息子が京都大学に合格したことは、父や母にとって、大きな喜びだったに違いありません。父と母は、尋常小学校しか出ていませんし、私の子供のころの状況からみて、夢のようなことだったと思います。素直な気持ちで大きな親孝行であったと思います。
 父は、苗羽で生まれ、苗羽で育ち、苗羽しか知らずに、人生を終えたと思います。小さな世界で、自分の好きなように、わがままに生きたわけです。多くの人に迷惑をかけたこともあったでしょうが、自分ではそのことを気付かないまま、この世を去っていきました。そのことは、父にとっては幸福であったでしょう。
 父が最も迷惑をかけたのは母に対してであろうと思います。母は、田浦の子沢山の漁師の家の長女として生まれました。母は、若くして、結婚歴のあった年の離れた父のところに嫁ぐことになりました。比較的旧い家でもありましたから、辛いことが何度もあったにかたくありません。父の不用意な言動が母を傷つけたこともあったでしょう。そんな父を母は恨むでもなく、今も大切に思っているようです。母のその思いは私の思いでもあります。
 私にとっての苗羽の原風景は、醤油船の波止場です。子供の時、醤油船が出入りするのを見ることが好きでした。丸金の勤めを終えた父に自転車の後ろに乗せてもらい、「馬木ばと」や「安田ばと」に、よく連れていってもらったことを覚えています。
 苗羽という小さな地域しか、まだ知らなかった私が、木造の古びた丸みを帯びた醤油船にどんな思いを寄せていたのでしょう。帰省した時には、時々、波止場に行きますが、もう醤油船を見ることはできなくなりました。モータリゼーションの変化からトラック輸送が主力になったのでしょうが、淋しい気もします。
 苗羽は、何といっても醤油の街です。かつては何十もの醤油屋さんがありましたが、今はその数は随分減ったのでしょうか。醤油屋さんは、映画「二十四の瞳」にも登場しています。この映画には、苗羽の方々が沢山出演していますが、私の祖母も「ことえ」の祖母役で出演しています。祖母が丸金のそばの道を「ことえ」を探して歩く場面があります。
 祖母はもう亡くなっていて確認する術がな いのですが、その場面で祖母は赤ん坊を背負っています。この赤ん坊は誰なのでしょうか。ビデオを見ながら、年齢や頭の格好から、もしかしたら私ではと思ったりするのですが、もしそうなら私も、歴史に残る映画に出演していたことになります。今は醤油に代わり、佃煮が栄えてきたようですが、地道な産業だけに息長く続いていってほしいと思います。(続く)(「苗羽の今昔」平成7年)(平成28年12月6日)

真光寺にある楠とシンパク

田浦の街並み

子どものころには内海湾を
たくさんの醤油船が行き交っていました

木桶を使った醤油づくり

平成7年に編纂された
「苗羽の今昔」

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第1820回 小豆島高校閉校式あいさつ


 小豆島高校の97年の歴史に、小豆島町長として、また、ひとりの卒業生として感謝します。
 小豆島町長としての感謝の気持ちを申し上げます。何よりも、小豆島高校は、広い分野の素晴らしい人材を輩出、育てていきだきました。卒業生の数は1万7千人を超え、小高で学んださまざまな人材が島の内外で活躍しています。
 二番目に、小豆島高校は、小豆島の地域社会の団結と絆の象徴でした。小高は、「島はひとつ」の象徴でした。
 三番目に、今年の小豆島高校野球部の甲子園出場の感激を忘れることができません。島がひとつになって、選手の皆さんの活躍を応援しました。また、陸上部の男女アベック駅伝全国大会出場も嬉しいニュースです。年末、都大路で声をからして小高最後の応援をします。
 卒業生の一人として感謝の言葉を申しあげます。
 入学式での湯川明夫校長先生の「君たちは、島の最高学府に入ったという誇りをもって勉学に励むように」という訓示が昨日のことのようです。
 立派な先生方と先輩がいました。私は、ある先生にあこがれ、先輩に負けないようにと、勉強に励むことができました。その結果、先生と同じ大学に入ることができました。私が今あるのも、先生と先輩、友人のおかげです。
 東京で、霞が関で仕事をしているとき、いつも「君は、高松高校卒業か」と聞かれました。「小豆島高校です」と、誇らし気に答えるのが楽しみでした。「小豆島」や「小豆島高校」には魅力と魔力があります。
 「二十四の瞳」に出てくる岬の分教場のような学校を、きっとみなさん、思い浮かべるのだと思います。小豆島高校の卒業生であることが、私を助け、私の力になりました。小豆島高校あり がとうございます。
 小豆島高校は97年の歴史を終えます。しかし、その歴史は、小豆島中央高校に引き継がれます。新しい歴史が始まります。歴史は、断絶するのでなく、連続します。小豆島高校魂は、小豆島中央高校に受け継がれます。
 大学時代によく、ドイツ語の「アウフヘーベン」という言葉を聞きました。私の好きな言葉です。日本語では「止揚」です。日本語でも難しいかもしれない言葉ですが、「課題、困難を克服し、より良きもの、より高い次元のものになる」ことです。
 小豆島中央高校の誕生は、まさに、小豆島高校の「アウフヘーベン」「止揚」を意味します。小豆島中央高校が、小豆島の新しい魅力と可能性を創りだしてくれるはずです。
 小豆島高校の跡地は、小豆島町と小豆島の総合的な教育、文化、スポーツの拠点として活用したいと小豆島町では考えています。この地でも小豆島高校魂は生き続けます。小豆島中央高校の未來に大いに期待したいと思います。小豆島高校ありがとうございました。(平成28年12月5日)

小豆島高校の卒業生で組織される錦楓会が
主催する閉校記念式典が行われました

式典には島内外から
多くの卒業生が集まりました

小豆島高校閉校記念式典のようす

校歌斉唱では、卒業生の皆さんが
思いを込めて歌われていました

式典後には、小豆島高校の卒業生で
ソプラノ歌手の高橋薫子さんの
リサイタルが行われました

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第1819回 小豆島高校陸上部男女アベック全国大会出場


 今年は、小豆島の若者たちが、大活躍してくれました。3月には、小豆島高校野球部が春の全国選抜高校野球大会に初出場する快挙を成し遂げてくれました。そして、今度は、小豆島高校陸上部が、男女アベックで、この25日、京都で開催される全国高校駅伝大会に出場することになりました。
 この日、選手の皆さんが表敬訪問してくれました。男子は、県外ランナーもいる強豪尽誠学園を破っての待望の初出場です。女子は、苦戦が予想されるなかで、見事に県大会で優勝しました。女子は、5回目の全国大会出場です。男女そろっての全国大会出場は、香川県で初めてという快挙です。
 選手の皆さんの頑張りと努力の賜物ですが、荒川監督という名伯楽の存在も大きいと思います。また、中村監督をはじめ中学校の先生方の指導も大きいと思います。
 小高野球部の甲子園出場も、小豆島で学童野球が盛んに行われているという裾野があって達成できたことです。陸上部の男女アベック全国大会出場も、今年で57回目を迎える、小豆島中の地域チーム34チームが参加する小豆島駅伝競走大会という裾野の上で達成できたことです。
 今年度で97年の歴史を小豆島高校は閉じます。その記念すべき年に、野球部と陸上部の面々が偉業を達成してくれたことを心から感謝します。小豆島高校は歴史を終えるのではなく、新しい小豆島中央高校に引き継がれます。どんな歴史が新しい高校で刻まれるか今から楽しみです。
 ところで、先日、小豆島中学校の3年生に講話する機会がありました。私にとって、小豆島の家から一番近い、小学校、中学校、高校に通い、学んだことが、私の人生の支えと誇りになったことを話しました。新しい高校の歴史の第一歩を踏み出すのは皆さんと、私の期待と思いを話しました。
 未来を担うのはこどもたちです。残念ながら、私は、これから30年後、50年後の小豆島がどうなっているかを、自分の目で見ることができません。小豆島の未来はこどもたちの手にかかっています。
 人という字でわかるように、人は一人では生きていけません。助け合い、支え合いながら、生きていかねばなりません。野球も、駅伝も、チームプレイです。一人、一人の力と、みんなの力があわさることが必要です。年末の都大路、陸上部のみんなには、全力を尽くして、タスキをつないでほしいと思います。私も都大路で、声をからして、小豆島高校最後の応援をしたいと思います。(平成28年12月2日)

念願の初優勝を果たした
小豆島高校陸上部男子チーム

2年連続5度目の優勝を果たした
小豆島高校陸上部女子チーム

小豆島駅伝競走大会
今年は12月4日(日)に開催されます

小豆島中学校の3年生に
講話をさせていただきました

小豆島高校陸上部から
全国大会出場の報告と抱負をいただきました

年末の都大路では声をからして
小豆島高校最後の応援をしたいと思います

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第1818回 オリーブ公園がモデル「道の駅」になりました


 全国に1000を超える「道の駅」があります。「道の駅」とは、国土交通省が登録した駐車場・休憩施設・地域振興施設が一体となった道路施設のことです。
 小豆島町でも、オリーブ公園と小豆島ふるさと村が認定されています。全国の「道の駅」と同様に、ふたつの「道の駅」は、小豆島の観光施設の中核として、賑わっています。
 「道の駅」について、厚生労働省と環境省で仕事を長くしていた私は、「道の駅」とは、うまいネーミングを考えたものだと感心していましたが、正直なところ、それ以上の問題意識を持っていませんでした。
 国土交通省四国整備局から、オリーブ公園を、全国の「道の駅」のモデルとして、四国ブロックのただ一つの候補として、手を上げてくれないかと頼まれたとき、どういうこととぴんときませんでした。
 よく聞くと、全国の「道の駅」が、どうも本来の趣旨から離れて、地域の特産物売り場のような位置づけになっており、地域の住民の日常の暮らしをよくすることに貢献するという本来の趣旨からずれはじめている、これでは、民間のパーキングエリアと変わらないのではないかという問題意識でした。オリーブ公園は、売店収益を活かして、住民の健康福祉づくりに取り組んでいるので、これからの「道の駅」の在り方の全国のモデルになるというのです。
 私は、この話を聞いて、目から鱗が落ちました。オリーブ公園にとって、赤字のサン・オリーブは金くい虫で、オリーブ公園のお荷物になっていると思っていたからです。サン・オリーブがあることが、オリーブ公園の魅力を高め、サン・オリーブを住民の健康づくりに活かしている今のかたちこそが、「道の駅」としての本来のかたちであり、これをどう充実していくかが私の使命だと気がつかされました。
 もともと、サン・オリーブは、香川県が、高齢者の健康いきがいづくりの中核施設として整備したものです。温泉入浴施設だけでなく、さまざまなイベントができるホール、会議室、多目的の和室、健康運動ルームなど、高齢者の健康いきがいづくりの多機能の施設として建設され、小豆島町に譲渡されたものです。
 その目的は、いいことですが、高齢者の地域活動を前提にしているので、本格的な音楽、演劇、講演などを行うには、ちょっと中途半端であったり、経済的な採算性もあまり考慮されておらず、どのようにこのホールを活かしていくかが議論になっていました。
 したがって、サン・オリーブはいい施設ではあるのですが、どう活かしていくか、悩んでいるばかりでした。その意味で、国土交通省から、オリーブ公園が、住民サービスに貢献する、これからの「道の駅」の全国モデルに認証されたのは、「厚生労働省出身で、オリーブを用いた健康長寿づくりを進めている町長さん。もっと頑張りなさい」と、喝を入れられたのです。
 この日、国土交通省の大臣室で、他の5つの自治体の皆さんと、石井国土交通大臣から住民サービス部門のモデル「道の駅」の認定証を授与されました。これから、知恵を絞り、モデル「道の駅」に恥じない取組みを、オリーブ公園でしていこうと思います。(平成28年12月1日)

「道の駅」オリーブ公園

健康生きがい中核施設の
「サン・オリーブ」

サン・オリーブ内のホールで行われている
温浴教室のようす

音楽、演劇、講演などさまざまな
イベントも行われています

石井国土交通大臣から住民サービス部門の
モデル「道の駅」の認定証をされました

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