小豆島町長の「八日目の蝉」記 

 私は小豆島に生まれ育ちました。18歳のときこの島を離れ、40年ぶりに島に帰ってきました。島に帰ってから新しい発見の日々です。この島には、今私たちが失いつつあり、探し求めている何か、宝物がいっぱいあります。
 平成22年の3月と4月に、NHKが「八日目の蝉」というドラマを放映しました。小豆島が舞台のドラマです。その後、映画化され、平成23年4月29日に全国ロードショーされました。蝉の地上での命は普通7日です。ですから、8日目の蝉は、普通の蝉が見ることができないものを見ることができます。作者の角田光代さんは、原作で、小豆島のことを「海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」と表現しています。そして、主人公である若い女性に、おなかの中の子に、この景色を見せる義務が私にはあると、語らせています。
 そこで、私は小豆島の「きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」を、これから町長の日々の仕事を通して訪ねてみようと思います。

第1873回 「小豆島の料理」を神戸で楽しみました


 地域のことを一番知っているのは、そこに住んでいる地域の人のはずです。小豆島にある美味しいものを一番知っているのは、小豆島に住んでいる私たちのはずです。  
 神戸三宮にある炭旬鮮市場「からす」におじゃまして、決してそうではないことを思い知りました。数か月前、神戸などで飲食店・居酒屋チェーンを経営されているワールド・ワン河野圭一社長さんらスタッフの皆さんが、小豆島町役場に私を訪ねてきました。  
 神戸出身の河野さんは、プロレスラーとして活躍したという経歴の持ち主ですが、20年ほど前から、震災後の神戸の復興を願い、神戸らしいお店をしたいと飲食店・居酒屋を始めました。  
 神戸らしい店とは、港町神戸とつながる地域の新鮮で、美味しい「郷土料理」を提供することでした。神戸は、今年開港150年を迎えます。神戸は、日本と世界をつなぐ、この国を代表する港町です。海を通じて、日本と世界の各地とつながっています。  
 河野さんは、神戸と海でつながる沖縄料理と土佐料理などの郷土料理を提供し、成功を続けています。そして、今度は、瀬戸内海でつながる小豆島の食材の郷土料理を提供したいと申し出てくれたのです。  
 河野さんは、2月1日から3月31日まで、神戸の5つのお店で、「小豆島フェア」を開催し、小豆島の新鮮な食材を使った、飛びっきり美味しい小豆島の郷土料理を提供しています。小豆島の生素麺、名産オリーブの新漬け、グラッセ、生アスパラカス、オリーブ醤油パスタ、川めし、島ハモのアヒージョ、小豆島でんぷくのカルパッチョ、小豆島産無農薬レモンサワー、純米吟醸酒、小豆島小鯛のガーリックオイル焼きなどなど、そのメニューは、すべて小豆島産オンパレードです。小豆島にはない創作料理まであります。  
 小豆島でも、これだけの小豆島メニューを一度に楽しむことはできません。ひとつひとつは、間違いなく、素晴らしい小豆島メニューですが、地元の私たちには、それらを一度に、全部楽しもうという発想と実行力とエネルギッシュさが欠けています。
 ひとつひとつだけで、満足しているのです。もっと知恵をしぼり、工夫をこらすと、一気に、小豆島の魅力が、大化けし、大開花することを河野さんのお店が立証してくれています。  
 ところで、河野さんらの企画を応援してくれたのは、百十四銀行の皆さんです。百十四銀行は、香川県を代表する地方銀行です。百十四銀行の大阪・神戸のスタッフの皆さんが、小豆島にUターンしていたOBの行員だった方を通じて、私たちと河野さんをつないでくれました。  
 神戸と小豆島は、いろいろなつながりがあります。私にとって、神戸は、いつも「あこがれの都会」です。子どものころ、夏休みに神戸を訪ね、甲子園に行くことが一番楽しいことでした。  
 小豆島と神戸は、ずっと定期航路で結ばれていたのですが、震災後、長い間、定期航路がなくなっていたのを、5年前、ジャンボフェリーが復活してくれました。  
 神戸も震災を乗り越えようとしています。神戸がこれまで以上に港町として栄えてほしいと願っています。小さいことのようで、神戸と小豆島を結ぶ河野さんのお店の「挑戦」は、いろいろな縁につながって、大きな可能性を秘めているように感じました。(平成29年2月24日)

「小豆島フェア」が開催されている神戸三宮の
炭旬鮮市場「からす」を訪れました

神戸などで飲食店・居酒屋チェーンを
経営されているワールド・ワン河野圭一社長

ジャンボフェリーが発着する神戸は
今年開港150年を迎えます

小豆島フェアの小冊子
(クリックすると拡大できます)

小豆島でんぷくのカルパッチョ

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第1872回 番外編アーカイブ㉒「地域づくりの新しい芽」


ちょっといい話-17「KASUMIGASEKI 環衛かわら版」 環衛ジャーナル平成7年1月号
「地域づくりの新しい芽」 厚生省生活衛生局指導課長 塩田幸雄

 理容店の前に大勢の頑固そうな男たちが並んでいる。「何か不穏なことでも」と思っていたら、大阪府理容組合の寝屋川支部の山根支部長さんをはじめ組合員の方々が私を待っていてくださったのだ。
 京都出張の合間をぬって、大阪府寝屋川市の理容店と美容店を訪ねた。訪問の目的は、大阪府の環衛組合が、大阪府公衆衛生協力会(環衛組合はもちろんさまざまな団体が結集した大阪府だけにある社団法人)が中心になって進めている“ぬくもりとやさしさのあるまちづくり”というユニークな事業を見るためである。
 支部長の山根さんが経営する「ヘアサロンやまね」で、組合員の方々から、組合員が協力して、在宅の高齢者などの理髪サービスに取り組んでいる苦労話を伺う。その後近くの「マサ美容室」でも美容組合支部長の新田さんとお店を経営する吉峰さんが、熱っぽく話してくれた。
 少子高齢社会の到来がいわれて久しい。扶養する人が減り、扶養される人が増える。少子高齢社会は、暗く活力のない社会という見方が一般的だ。指導課に来る前、高齢社会に関連した仕事をしていた関係で、活力ある高齢社会づくりに取り組んでいるさまざまな人に会うことができた。これらの方々は、行政から言われてこの問題に取り組んでいるのではない。自発的に、共通の問題意識を持つ人達が、ネットワークを広げている。活力ある高齢社会づくりの鍵は、公的セクターの在り方はもちろん、民間セクターがどれだけの知恵と力を発揮できるかにある。

 

小豆島町での「温浴教室」の取り組み

 大阪府の“ぬくもりとやさしさのあるまちづくり”事業の内容は簡単である。一つひとつの店が、高齢者や障害者が地域社会の中で潤いのある生活を送れるような福祉サービスを、本来のサービスの中で提供することである。理容、美容なら体が不自由なため、店に来られない人への出張サービス、公衆浴場なら高齢者や障害者の無料入浴日の設定など。寝屋川市では、これらに環衛組合が総出で取り組んでいる。
 高齢社会づくりの鍵は、何かを人に求めることではなく、それぞれができることをそれぞれの立場から実行することである。地味な取組みだが、組合の方々の明るい表情は、地域社会の中に根付く、これからの組合活動のひとつの在り方を間違いなく示唆していると思う。

(注釈)
 はじめて厚生省の課長になったのが、生活衛生局の指導課長でした。このポストに着いて、いろいろな経験をさせてもらい、僕のその後の人生の基礎をつくってもらったように思います。
 とにかく、面白く、勉強になりました。この課長の仕事は、理容店、美容店、公衆浴場、クリーニング店、お寿司やさん、蕎麦屋さん、料亭、飲食店、バー、お肉屋さん、映画館など、町なかにある、お店の衛生管理の向上を名目に、お店の振興とまちづくりなど、ありとあらゆる問題を担当しました。
 全国各地に行って、相談を受け、問題解決に奔走しました。この業界の皆さんは、人柄がよくて、地域のリーダー、しかも、政治に強かった。人生いかにいくべきか、政治をどう動かすか、どのタイミングで勝負をするか、本当に勉強になった2年間でした。
 このころ、毎月、訪問した皆さんとの対話をエッセイにしていました。エッセイでは、地域の現場で活躍する皆さんが本名で登場します。素晴らしい出会い、元気をもらう出会いの連続でした。もう20年も以上も前のことですが、昨日のことのようです。(平成29年2月23日)


高齢者の買物支援「まごの手マーケット」

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第1871回 地域×デザイン2017-まちが魅えるプロジェクト-「愛のバッドデザインin小豆島」


 東京六本木の東京ミッドタウン・デザインハブであった「地域×デザイン2017-まちが魅えるプロジェクト-」に出席しました。  
 今、日本各地で地域の特色を活かした取組みが行われていますが、それらの取組みは、高度成長の時代を経て、東京一極集中、大量生産と消費、少子高齢化、過疎化などにより疲弊してしまった地域を蘇らせ、コミュ二ティや文化を編み直す作業とも言えます。こうした取組みに注目した日本デザイン振興会が企画運営するプロジェクトです。
 今回のプロジェクトには、デザインによって、生活・文化やコミュ二ティの価値の転換を図り、魅力に変えている全国の約60のプロジェクトが参加しています。この日は、プロダクトデザイナー、工業デザイナーの清水久和さんと一緒に、それらのプロジェクトのひとつである「愛のバッドデザインプロジェクトin小豆島」を紹介するために、清水さんとトークをしました。  
 清水さんが提唱する「愛のバッドデザイン」とは、身のまわりのささやかなものに美を見いだす活動です。決してグッドデザイン賞はもらえないけど、グッドでユーモラスな存在感を放つモノたちに敬意をこめて「愛のバッドデザイン」と清水さんは名付けています。  
 清水さんと一緒に、小豆島の小学生と若者が中心となって小豆島の「愛のバッドデザイン」を発掘しました。観光名所だけが魅力なのではない。「愛のバッドデザイン」という新しい視点から、島の隠れた魅力に光を当てました。見落としがちだけれど、かけがえのない小豆島の生活風景を改めて見つめ直し、記録するプロジェクトです。  
 清水さんに初めてお会いしたのは、2013年の瀬戸内国際芸術祭のときでした。「醤の郷+坂手港プロジェクト」のひとつとして、清水さんは、醤の郷のオリーブ畑のなかで「オリーブのリーゼント」という作品を展示されました。  
 その作品は、オリーブ畑の中にある、ヘアスタイルがリーゼントで、オリーブに似た顔型の立体作品です。彫刻でありながら、実は無人販売の屋台でもあり、くぼんだ部分には野菜や果物を置ける仕組みになっています。この作品は、瀬戸芸のたくさんの作品のなかで圧倒的に評価され、人気を呼びました。  
 清水さんは、プロダクトデザイナー、工業デザイナーです。アートは100%の人ではなく、本物がわかる人が評価するものであればよいが、工業デザインは100%の人が評価するものでなければいけないと聞かされたことがあります。なぜなら工業デザインは、製品として消費者に評価され、購入されなければ何の意味もないからです。  
 100%の人が評価するデザインとは、途方もないデザインです。清水さんは、それを実行しています。「オリーブのリーゼント」もそんな作品でした。その清水さんから、「小豆島で『愛のバッドデザイン』をしましょう」という提案を受けました。  
 どこにでもあって、見落としている何気ないデザインのなかに、本物のデザインがあり、新しいデザインのヒントがある、小豆島にある「愛のバッドデザイン」を見つけ、そこから何かを得る取組みを小豆島の若者たちとやろうと。もちろん大賛成、すぐにやることが決まりました。  
 私がお願いしたことは、ただひとつ。島の若者をあげて行うこと。小豆島は外から見ると、ひとつのようですが、実は、ふたつの町に分かれています。平成大合併のとき、なんとかひとつの自治体になろうとしたのですが、寸前でうまくいかなかったのです。この反省から、若者たちに島がひとつになって「愛のバッドデザイン」の取組みを行ってほしいと思ったのです。若者たちは、その期待に見事に応え、島がひとつになって取り組んでくれました。  
 清水さんは、「愛のバッドデザイン」を、工業デザインの有効な手法であると考えておられます。清水さんの、斬新で、シンプルで、誰もが納得するデザインは、日常的な「愛のバッドデザイン」の取組みを経て、産みだされていると聞きました。  
 実は、私の仕事が、社会政策を作る社会政策デザインとすれば、斬新で、シンプルで、誰もが納得する社会政策もまた、どこにでもあって、ややもすれば見落とされがちな、人々の日常的な取組みのなかに、そのヒントがあるという点で、社会政策デザインと工業デザインには、共通するものがあると、私は思います。  
 いずれにしても、六本木という大東京のどまんなかで、清水さんとその仲間たちの皆さんと、楽しいひと時を過ごせるなんて夢のようでした。工業デザインも、社会政策デザインも、ともにこれからが勝負です。(平成29年2月22日)

デザインハブ 「地域×デザイン2017
-まちが魅えるプロジェクト-」のチラシ
(メインビジュアル:UMA/design farm)

清水久和さんとのトークショーのようす

瀬戸内国際芸術祭2013での
清水さんの作品「オリーブのリーゼント」

清水さんと小豆島の若者たちによる
愛のバッドデザインのワークショップ

瀬戸内国際芸術祭2016での
愛のバッドデザインの作品展示

小豆島の若者たちにひとつになって
「愛のバッドデザイン」の取組みを行いました

清水さんと愛のバッドデザインプロジェクト
プロジェクトマネージャーの鈴木紗栄さんと

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第1870回 国土交通省訪問


 東京に行きました。
 訪問先は国土交通省です。小豆島に戻ってから、中央省庁の訪問先は、専ら国土交通省です。意外なようですが、「現実」をよく反映しています。  
 地方自治体にとって、一番中央省庁訪問が多くてもよさそうな分野の仕事、例えば、厚生労働省などの分野は、基本的に地方自治体で考え行動すべきものになっています。政策の大きな枠組みは中央省庁が立案していますが、そのことで自治体の首長が中央省庁と相談、調整しなければいけないことは、もうそれほど多くありません。  
 かつては特別養護老人ホームなどの整備費国庫補助を求めて、「中央省庁詣で」をしなければいけない時代があったのですが、そういう時代が終わったのは、よかったと思います。一方で、中央省庁の皆さんにとって、自治体のスタッフなどとの生きた会話が少なくなったマイナスはあると思いますが、それも時代の反映として、受け止めていく必要があるかもしれません。  
 そういうなかで国土交通省は別格です。国土の保全などの分野は、国土全体の広い立場から、専門性の高い立場から行うべきことがたくさんあります。この日は、水資源管理局砂防部長を訪ねました。  
 砂防部長は、同じ大学出身ということもあって、かねてから知っている方ですが、訪問をして、小豆島が昭和49年、51年の豪雨災害の後、砂防ダムなどによって、その後の災害が予防されていることのお礼をし、意見交換をしました。  

 

過去の災害を教訓に小豆島には
多くの砂防ダムがつくられています

 私は、厚生省で廃棄物行政を担当し、環境省でもさまざまな分野の仕事をしたので、国土交通省のスタッフのみなさんとよく議論をさせていただきました。  
 国土交通省の仕事は、とても幅広く、国民生活にとてもかかわりがありますが、ときに、国民世論の厳しい批判にさらされます。公共事業自体が間違ったものである、悪であるかのごとき、議論さえ、ときに行われました。  
 公共事業と環境保全をどう考えるかというテーマは、私たちにとって本質的なテーマです。私たちがどう生きていくかにかかわる根本的なテーマです。このテーマの答えは、大変難しいもので、簡単な答えはありません。  
 環境省と国土交通省は、それぞれの立場に立って、このテーマでいつも厳しい議論をしていました。国土交通省と言えば、開発オンリーの発想だと考える人が多いかもしれませんが、実際は違います。国土を守ること、人々の暮らしを守ること、自然を守ることなど、いろいろな要素を常に考えながら、その時点、その時点で、最も良い結論を導くべき議論をしました。  
 省庁は、縦割りで、省庁の利益、エゴをぶつけ合っているという批判がありますが、そんなに単純なものではなく、相互に意見をぶつけ合うことで、それぞれが納得のいく結論にたどり着く、それが、「霞が関」が「霞が関」である所以であり、「矜持」だと思います。  
 国土交通省にうかがうと、環境省などの立場で、国土交通省の皆さんと議論したことがなつかしく思い出されます。国土交通省だから、環境がどうでもよい、環境よりも国土開発、そんな単純な意見ではないのです。本当の環境保全を考えているのは、実は国土交通省の方かもしれないと感じることもありました。  
 国土交通省を訪問し、技術のスタッフの皆さんが、疲れもみせず、がんばっているのをみて、なぜかほっとしました。(平成29年2月21日)


豊かな海の環境を守るための
地元の園児による稚魚放流

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第1869回 「文明哲学研究所」の皆さんの小豆島訪問


 京都造形芸術大学の「文明哲学研究所」の皆さんが小豆島を訪問してくれました。京都造形大と小豆島は、瀬戸内国際芸術祭をきっかけにして、きってもきれない縁ができています。  
 瀬戸芸2013で、「醤の郷+坂手港プロジェクト」のエリア・ディレクターを、椿昇京都造形大教授にしていただき、同大学の先生方、学生の皆さん総出で小豆島にかかわってくれました。  
 「小豆島を元気にしたい」という思いで、小豆島に戻った私でしたが、なかなか、そのきっかけをつかめずにいました。アートとの出会いが、小豆島を元気にする、思いがけないヒントを与えてくれました。以来京都造形大といろいろな交流が始まり、続いています。  
 それでも、今回の「文明哲学研究所」の皆さんの来島には、一体何が始まるのだろうかと興味をそそられました。ビートたけしさんとの協働の作品を小豆島で展示していただいた同大学教授のヤノベケンジさんから今回の話を聞いたのですが、メンバーは、地震学の元京都大学総長の尾池和夫京都造形大学長のほか、京都大学でチンパンジーを研究する所長の松沢哲郎教授、動物行動学の幸島志郎教授、青木秀樹弁護士ほか、芸術研究などの皆さん約10人、まさに多彩です。  
 京都造形大の建学理念は「藝術立国」です。それを通して「核」廃絶と世界平和をめざす教育を行うため、創設者の徳山詳直初代理事長が、2012年に設立したのが「文明哲学研究所」です。
 「『反核・反原発』と『人道主義(ヒューマニズム)』の旗を掲げて、学問と芸術を交差させることで、自由・平等・博愛といった人類が共有する理念の実体化をすることだと思います。そうした理念のもと、この世界の森羅万象に優しいまなざしを向けられる若者を育てます。」と、松沢所長が研究所の趣旨をあるところで書かれていました。  
 私は、研究所の皆さんの来島を楽しみに待っていました。はたして、皆さんが小豆島で何を見、何を感じとろうとされているのか、小豆島は、皆さんの期待に応えることができるのか、わくわくどきどきして来島をお待ちしました。  
 いろいろなところを訪問していただきました。私がご一緒できたのは、「岬の分教場」とヤマロク醤油の醤油蔵、「スターアンガー」などのヤノベさんの作品だけでしたが、一行の今回のメインの訪問先は銚子溪でした。小豆島の猿は、寒さが厳しくなると、何頭もの猿で団子のように固まって寒さをしのぐ「猿団子」という行動をとります。  
 「猿団子」は、小豆島の冬の風物詩だけど、どこにでもあることと思っていたのですが、松沢先生によると、「猿団子」は、小豆島でしか見られない、珍しい行動なのだそうです。松沢先生は、じっと観察されて、団子はメス猿と子猿ボス猿のみ、オス猿は加わっていないと、すぐ指摘されたそうです。  
 どうして日本猿の群れは、一匹のボス猿とメス猿と子猿で構成され、オス猿は群れにいないのでしょうか。ボス猿は、何をもってボス猿でいられるのでしょうか。ボス猿は、メス猿の上にまたがるように乗っていたそうですが、どうしてそんな行動をするのでしょうか。オス猿はどうして猿団子に加わっていないのでしょうか。  
 日本猿とチンパンジーとゴリラは、僕からすると、同じように見えますが、全然、行動パターンが違うのだそうです。どちらにしても、猿から人間が生まれ、猿から人間になるにあたって、何が必要であったのか、何が起きたのか、人間は人間の先に何があるのだろうかなどなど、興味は尽きません。  
 ところで、芸術家、芸術研究者、地震学者、動物行動学者、チンバンジー学者、音楽家、弁護士など、全く異なる分野の皆さんが集まって、わいわい、がやがや議論して、いったい何が生まれるかと思いますが、実は、このマルチな学際的な交流こそが、「京都学派」と呼ばれる皆さんの本質だと思います。  
 異なる分野の知的な好奇心のかたまりの人たちが、自由に、気楽に、談笑するなかで、思いがけない知的な刺激を得るのだと思います。「京都学派」からノーベル賞学者が輩出する理由のひとつだと思います。  
 京都造形大の「文明哲学研究所」の皆さんと短い時間でしたが、知的好奇心に満ちた楽しいひと時を過ごさせてもらいました。今まで気づかないでいた小豆島にある魅力にも気づかせていただきました。 (平成29年2月20日)

椿昇教授がエリア・ディレクターを行った
「醤の郷+坂手港プロジェクト」

京都造形芸術大学といろいろな
交流が始まり、続いています

昔の教室風景が残る
「岬の分教場」

木桶が残るヤマロク醤油の醤油蔵


高尾農園にて、京都造形芸術大学の
学生の壁画前での集合写真

ビートたけし×ヤノベケンジ作
《アンガー・フロム・ザ・ボトム 美井戸神社》
前での集合写真

銚子渓での「猿団子」が
メインの訪問先でした

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第1868回 番外編アーカイブ㉑「4度目の年男」


 「週刊社会保障」 交差点 平成11年2月22日
 「4度目の年男」 厚生省生活衛生局 水道環境部計画課長 塩田幸雄  
 
 今年は卯年。本人は若いと思っていても、はや4度目の年男である。兎のように飛び跳ねるのもいいが、地面を這いながら、目的地を目指して、一歩一歩地道に前進する亀の歩みの方が、年相応である。  
 昭和26年、卯年。朝鮮戦争の特需景気で戦後の混乱から抜け出した日本。この年、「二十四の瞳」の舞台、瀬戸内海小豆島に、僕は誕生した。12年後の卯年、昭和38年。「兎の上り坂」のとおり高度経済成長上り坂の日本。僕は、岬の分教場の本校の小学生。「石の地蔵様」と呼ばれ、「へげたれ」(意気地なし)だった。  
 次の卯年、昭和50年。オイルショックから脱出した日本経済。僕は、学生時代を過ごした京都を離れ、ついに東京までやってきた。12年前の卯年、昭和62年。バブル絶頂の日本経済。僕は、鉄のまち北九州市で、環境と高齢者福祉の地方行政を勉強中だった。そして今度の卯年。厳しい経済状況からの出口が見えない日本。何事につけて自信喪失、閉鎖状況の日本。僕は、難題山積の廃棄物行政に奮闘中だ。  
 東京湾のごみ埋立処分場を舞台にした山田太一の小説を読んだことがある。主人公は、誰もいない闇夜のごみ埋立処分場で小さく光るものを見るが、それは幻想に過ぎず、医師から躁鬱病と診断される。捨てられたごみの山のなかで光るもの。誰もが見向きもせず、無価値と思われるもの中にこそ、実は光輝くものがあるのではないのか。  


田浦地区にある岬の分教場

  今、日本の経済社会が暗闇の中にあるとすれば、一刻も早く抜け出したいものだが、暗闇のなかにも光るものがあるとすれば、暗闇も実はそう悪くはないかもしれないのだ。  
 今度の卯年は、闇夜の視界の悪いなかで、光りを見つける楽しさも味わう年であってほしいと思う。

 (注釈)  
 4度目の「年男」の年は、廃棄物対策で夢中でした。朝から晩まで365日、「ごみ」と格闘していました。日本の廃棄物行政の大転換期だったと思います。目指したのは「循環型」廃棄物行政への転換でした。新しい理念の政策を作ろうと夢中でした。このときは、「現場第一主義」も貫き、マスコミの皆さんと現場を度々訪ねました。  
 そういう自己陶酔の気分のなかで、書いたものですが、我ながらよく書けた文章です。暗闇に光輝くものを探すなんて、恰好良すぎますね。  
 5度目の「年男」の年は、小豆島町長になって、今度は小豆島で光を見つけるのに夢中になっていました。6度目の「年男」の年はどう迎えているでしょうか。楽しみです。小豆島が光輝いていてほしいですね。もちろん、小豆島だけでなく、全国各地も光輝いているはずです。役人として、最も輝いていたころ書いた文章です。(平成29年2月17日)


6度目の「年男」の年には
小豆島が光輝いていてほしいです

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第1867回 番外編ア-カイブ⑳「厄年の教訓」


 交差点「週刊社会保障」 平成4年12月7日
 「厄年の教訓」 長寿社会開発センター企画運営部長  塩田幸雄  

 今年は42の厄年だった。厄年とは、広辞苑によれば、人の一生のうち、厄にあうおそれが多いから忌み慎まなければならない年。厄年には、正月に神社で卒業した小学校ごとにおはらいを受け、同窓会を開くのが故郷、小豆島の慣例。級友にあうのを楽しみに田舎に帰る。あこがれの人にも再会し、握手までする。厄年なんぞは迷信。素晴らしい年明けの平成4年。今年はいい年になるに違いない。  
 ところが、東京に帰った途端、時期はずれの人事異動の内示を受けた。今の時期に、しかも出向。事情を説明しながらの異動の挨拶まわり。正直なところつらいところもあった。五月になると、元気に畑仕事をしていた84歳の父が、げたをはくのを忘れて自転車に乗ってでかけたと、母から連絡が入る。父はほどなく入院、3週間の入院ののち亡くなった。  
 7月になると、5歳の二男が高熱を出し、川崎病の疑いがあるというので、入院。幸い、その疑いは晴れ、2週間で退院。9月になると、今度は、72歳の義父が入院、急死した。昨年、肝臓の手術をしていたとはいえ、父の葬儀にも元気に顔を出していたし、まだまだ年齢も若く、本当に思いがけないことだった。  
 厄年の教訓は生きていた。思えば人間40を過ぎれば、肉体的にも、社会的にも難しい時を迎える。その時には、親も、子もまた、それぞれの人生の難しい時であることが多いだろう。厄年は、人類の知恵として、このような時には行動を慎重にするよう、誰にもわかるような形で表現したものだろう。  
 厄年の平成4年。つらく悲しいことも沢山あったが、これほど波乱万丈で、いろいろな経験ができ、楽しく充実した年もなかった。初めての仲人。仕事を通じての交流の広がり。ねんりんピック。インドでの国際会議。そして、なによりも、未来をめざして、家族みんなが、それぞれ頑張ったこと。


内海八幡神社での厄払いのようす

 (注釈)  
 42歳の「厄年」のときに書いたエッセイです。この年、厚生省の同期の何人かが本省の課長となった一方、私は民間団体への出向となりました。しかも出向先の法人のある建物は、古いペンシルビル、しかも薄暗い部屋でした。このとき、厚生省同期の「出世競争」で、「僕もこれまでか」と思ったほどでした。  
 ところで、いってみると、民間人としてのこのときの仕事ほど、おもしろく、楽しいことはありませんでした。全国各地にうかがい、いろいろ活躍するたくさんの皆さんにお会いできました。民間の皆さんの発想力や行動力の秘訣を知ることとなりました。このときの経験が今生きています。  
 「厄年」はやっぱり「厄年」でした。42歳という年齢は、本人のキャリアとしても、家庭人としても、いろいろことがあり得る年齢なのだと思います。父と義父の二人との別れがあったのですが、どちらもタイプは違いましたが、私にとってはよき父でした。  
 長寿社会開発センターは、今では考えられないような、実に面白い仕事をしていました。例えば、NHKの番組づくりにもかかわることがありました。あるとき、タレントの萩本欣一さんと一緒になりました。お父さんが小豆島出身と聞いていたので、思い切ってご本人に聞いてみました。  
 ところが、意外なことに、そのことには触れてほしくないという雰囲気でした。どうしてだろうと思ったのですが、数年前のNHKの番組で萩本さんがお父さんのことを話されているのを見て、納得しました。  
 萩本さんのお父さんは、小豆島池田出身の方で、実に発想力のある起業家精神にあふれた人でした。戦後まもなく独自のカメラをつくり、成功しますが、GHQが部品の提供を停止したことで、事業は大失敗します。  
 それが理由で、萩本一家は離散し、萩本さんは、大学進学をあきらめます。お母さんと、「将来、自分が成功したら自分の力で大学に行く」と約束します。萩本さんは、その約束通り、数年前から大学に行っています。  
 萩本さんには、是非一度、お父さんのふるさと小豆島を訪れてほしいと思います。(平成29年2月16日)


萩本さんのお父さんの家があった
池田の町並み(昭和5年頃)

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第1866回 番外編アーカイブ⑲「失われた連帯感と絆をどう取り戻すのか」(下)


 特集・地域と環境の再生 社会保障のあり方「クリンネス」 平成20年12月
 「失われた連帯感と絆をどう取り戻すのか」 独立行政法人福祉医療機構 理事 塩田幸雄
 
 新しい社会保障制度  
 日本はこれからの新しい社会保障の視点をどこに置くべきでしょうか。そのあり方を図1にまとめました。  
 これまでの社会保障改革は、人口減少・少子高齢化などに対応して、社会保障の制度としての持続可能性をどう高めるかという視点に立つものでした。これからは、このような課題を社会保障のさまざまな枠組みや取り組みを通じて、どう克服していくかという、積極的な視点を改革の基本に置かなければなりません。すなわち、社会保障の制度としての持続可能性だけでなく、現場でのサービスの持続可能性という面も忘れてはなりません。そのために社会保障改革それ自体が地域の人の力を高め、地域の総合力を高めるものにしていかなければなりません。


図1.社会保障のあり方を考える視点
(クリックすると拡大できます)

 地方と都市の再生への鍵  
 図2は、地方と都市の関係から地域の再生を図る視点を表したものです。  
 これまでは、都会に出た若者が都市の発展と経済活性化に貢献し、その成果がさまざまな形で地方に還元されてきました。しかしこれからは、地方出身の中高年だけでなく、都会育ちの若者も含めて、より多くの人材が地方で活躍することが求められています。とりわけ、高齢者の仲間に入っていく団塊の世代が、地域の活性化にどのようにかかわっていけるかが、大きな鍵となります。彼らが、地域における教育や介護、地場産業の活性化などの担い手になって、これまでの高齢者像を変えていくならば、少子高齢・人口減少社会の姿もこれまでとは全く違ったものになります。地域がそれぞれの特性を活かして、地場産業、人づくり、身近な環境再生などを競い合うことで、地域のかかえる困難な課題を自力で克服していかなければなりません。高齢者の介護、子育て、障害者支援なども、国の制度によって動くのではなく、地域の人の力と総合力を高める自発的な活動にしていくことが必要です。次の社会保障改革は、地域再生の視点から、年金、医療、介護などの社会保障のあり方を再点検する作業でなければなりません。  
 今、地方が元気を取り戻し、再生の道に踏み出すことができるならば、日本全体の将来も決して悲観すべきものではありません。地方の再生を可能とする鍵は、地方が、根源的な意味で、本来のかたち、つまり、美しい環境の再生と連帯感と絆に支えられた地域社会を取り戻せるかどうかが、日本の将来を左右する大きな課題となっています。(平成29年2月15日」)


図2.人口減少・少子高齢化を克服するために
(クリックすると拡大できます)

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第1865回 番外編アーカイブ⑱「失われた連帯化と絆をどう取り戻すのか」(中)


 特集・地域と環境の再生 社会保障のあり方「クリンネス」 平成20年12月
  「失われた連帯感と絆をどう取り戻すのか」 独立行政法人福祉医療機構 理事 塩田幸雄
 
 社会保障の果たすべき役割  
 社会保障を充実させることが日本経済の足を引っぱったり、人々の自立を損なうという意見がありますが、本当にそうなのでしょうか。むしろ、あるべき姿の社会保障は、地域社会の連帯感と絆を取り戻す上で大きな役割を果たし、根源的なところで日本の経済社会の発展の基盤となるのではないでしょうか。逆に、社会保障がその本来の役割を果たしていないとすれば、どこに問題があり、どうすれば克服できるのでしょうか。  
 今、日本はさまざまな課題をかかえています。経済面における新興国や先進諸国との厳しい競争、国と地方の厳しい財政事情、ワーキングプアと呼ばれる新しい貧困問題などを克服するには、何よりも、人々の生活の基盤である地方、地域が元気を取り戻さなければなりません。自らの力で、地域をよくしていこうとする健全な精神が地域社会に戻ってこなければなりません。  
 健全な精神とは、地域社会の連帯感であり、互いに助け合い、支え合おうという精神です。かつて、こうした精神は、田植えや稲刈り、水の管理、山の世話など、四季折々の作業を地域ぐるみで協力して行うことで養われました。その意味でも、農林水産業や身近な環境の再生が不可欠です。主要先進国のなかで最低水準となった日本の食料自給率の低さは、単に農業の衰退を意味するだけでなく、身近にあった豊かな環境や地域の絆、連帯感の喪失も意味しています。


健全な精神が地域社会に戻るためにも
農林水産業や身近な環境の再生が不可欠です

 農林水産業の再生はさまざまな意味で急務ですが、それとあわせて、高齢者や障害者、子育て支援など、NPOなどの主体によって地域の福祉を育んでいく過程が、健全な精神を取り戻すきっかけになるのではないでしょうか。新しい社会保障は、地域の再生を目指し、さまざまな課題を一人ひとりの力とみんなの力で乗り切る、健全な精神を取り戻す営みとしていかなければなりません。
 社会保障の最大の機能は、国民生活に安全・安心を提供するセーフティネットの機能にありますが、そのほかにも介護従事者などの雇用確保、他産業への波及効果、年金による地域経済への資金循環など、その経済効果は大きなものです。少子高齢化や厳しい財政状況のなかで、ここ数年、大きな社会保障改革が行われ、制度の持続可能性は高まりました。しかし、一連の改革は、財政支出や負担と給付のバランス、世代間の公平性など、制度としての社会保障の持続可能性を強化するものであり、社会保障の持つさまざまな機能にまで目配りしたものではありません。  
 日本の社会保障は、欧州先進国と比較して十分に「小さな政府」を実現しています。さらに無駄を排除し、効率化に努めながら、国民の合意を広く形成し、みんなで負担しあうなかで、社会保障が持つ本来のさまざまな機能を十分に果たせるよう、充実を目指していくべきです。事実、欧州先進国では、少子高齢化が進むなかにおいてこそみんなで負担しあうことで、国民生活の安全・安心を確保し、健全な地域社会と身近な環境を守り、かつ、経済面での国際競争力も維持しています。わが国もそうした欧州諸国の例を参考にして、日本型の福祉社会を形成していくことができるはずです。(平成29年2月14日)


地域の福祉を育んでいく過程が
健全な精神を取り戻すきっかけになります

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第1864回 番外編アーカイブ⑰「失われた連帯感と絆をどう取り戻すのか」(上)


 特集・地域と環境の再生 社会保障のあり方「クリンネス」 平成20年12月
 「失われた連帯感と絆をどう取り戻すのか」 独立行政法人福祉医療機構 理事 塩田幸雄
 
 過疎化によって地域の豊かな環境と共同体が失われつつあります。人口減少の時代を迎えた日本の社会も、同様の道をたどるのではないかと危惧される今、地域を再生させる新たな取り組みが求められています。
 
 失われた連帯感と絆  
 私は、壺井栄の小説の舞台である瀬戸内海の小豆島で生まれ育ちました。この小説のなかで壺井栄は、岬の分教場のある村のことを、「農山漁村のすべてがあてはまる一寒村」と紹介しています。私は、このさりげない表現には深い意味があると感じています。それは、私たち日本人が失おうとしている「ふるさと」の光景を表現しているということです。失われたものとは、身近で平凡ですが、美しく豊かな環境であり、人々の連帯感と絆という心のあり方であり、その共同体です。どうすれば私たちは、美しい環境と人々の連帯感と絆を取り戻せるのでしょうか。  
 日本は2005年に人口の規模という面で峠を越え、人口はこれから減少の一途をたどります。江戸時代、日本の人口は3000万人程度で安定し、人々は鎖国政策のもとで信頼感に満ち、環境にもやさしい循環型社会を形成していました。そのため、人口が減少しても、これからの科学技術の進歩も加味すると、生活や環境の質をかえって高めることができるという楽観論もあります。しかし、本当にそうでしょうか。急速な人口減少に苦しむ地方や過疎地の姿は、日本全体の未来の姿を先取りしているのではないでしょうか。


壺井栄は、岬の分教場のある村を
「農山漁村のすべてがあてはまる一寒村」と紹介しています

 「限界集落」の広がり  
 今、高齢化と人口減少の結果、「限界集落」といわれる地域社会の維持が困難な地域が全国で数千を数えます。限界集落は、一部の限られた地域や地方だけの問題ではありません。このままの状況が続けば、社会の連帯感が薄れ、人々の絆が分断され、地域のさまざまな機能に繋がりがなくなり、地域社会の元気が失われ、日本全体が「限界集落」になるのではないでしょうか。  
 都市と地方の格差の論議は、都市は繁栄し、地方が衰退しているという視点に立っていますが、起きている問題の本質を見失っているように思われます。試みに、私の故郷である瀬戸内海にある小豆島の人口変化と日本全体の人口変化を比較してみましょう。江戸時代に3万人程度だった小豆島の人口は、戦後6万人でピークを迎え、その後減少の一途をたどり、やがて3万人を割ってしまうでしょう。人口規模が異なるとはいえ、日本全体も数十年遅れで、現在小豆島が直面している課題に遭遇するはずです。  
 今、衰退しようとしている地方の課題を克服できないのであれば、いずれ日本全体も同じ道をたどることになります。悲観論に陥らないために必要なことは、もう一度地方が元気に再生するための具体的な取り組みを実践することです。地方の再生は、急速に進む少子高齢化と人口減少の課題を日本全体として克服するために欠かせない条件です。また、社会保障改革、地方分権、消費税を含む税体系の抜本的な見直しなども、地方が、そして日本全体が、元気を取り戻すために避けては通れない課題です。

 (注釈)  
 厚生労働省を退官して1年たったころ書いたものです。このころ、小豆島に戻ることは想像もしていませんでしたが、今は、このエッセイで書いたことをどう実現するかで日々頭を悩ましています。生まれ育った小豆島への思いが、とても強く出た文章ですが、「連帯感と絆」とは何か、どうしてそれが人が生きる上で、社会で必要なのか、それが何によって失われようとしているのか、どうしたらそれを取り戻せるのでしょうか。ぼんやりした問題提起をしているだけの思い先行の文章です。3回の連載です。(平成29年2月13日)


急速な人口減少に苦しむ地方の姿は
日本全体の未来の姿を先取りしています

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第1863回 番外編アーカイブ⑯「中坊さんの精神」


晴雨計「国保新聞」 平成12年1月20日
「中坊さんの精神」 厚生省水道環境部計画課長 塩田幸雄  

 厚生省最後の廃棄物処理法の改正に取り組んでいる。廃棄物行政は、発展途上のフロンティアである。これまで、厚生省の幾多の先輩たちが、解決に向けて努力してきたが、不法投棄の横行や最終処分場の不足など、事態はむしろ深刻になっているとさえ言える。  
 厚生行政のなかで、廃棄物分野は、もっと光が当てられてもいいと思うが、新しい厚生労働省はあまりに巨大な役所である。ここは、新環境省に任せるのが妥当である。ということで、新環境省に、きちんとした形でバトンタッチをすべく、厚生省最後の法改正に取り組んでいる。  
 僕は、瀬戸内海の小豆島に生まれ育ったが、廃棄物の島として、有名になった豊島は隣の島で、行政区画としては、小豆島の一部である。豊島は、名前のとおり、今も、本当に、風光明媚で、自然に恵まれた豊かな島であるが、一握りの人の思慮不足から、都会の産業廃棄物が不法投棄され、これをどうして元気な姿に戻すかで多くの人が頭を痛めてきた。  
 問題解決に奔走しているひとりに中坊公平さんがいる。正月のテレビ番組の中で、次のようなことを中坊さんは語っていた。「現場に立って、現場の目線で、道理に従って考える。道理にかなったことは、それができないと諦めないで、実現に向けて行動すべきだ。」豊島から産業廃棄物が撤去されるようなことは無茶で、そんなことが実現するなど、誰も想像しなかった。しかし、今、多くの人の努力で、それが実現の一歩手前となった。  
 一年ほど前、何もわからないまま、廃棄物処理法の改正に取り組もうと思った。いろいろな人に助けられて無我夢中でやっているうちに、やるべきことがこのごろようやく見えてきたような気がしている。中坊さんの精神に負けないよう、悔いのない厚生省最後の法改正をやりとげたいと思う。


風光明媚で、自然豊かな豊島

  (注釈)  
 このころ僕は、猛烈に仕事をしていました。もう15年も以上前のことになってしまいました。連日のように新聞やテレビではゴミの不法投棄などの報道がされていました。  
 僕はそのころ国の廃棄物行政の「総司令官」のような気分でした。連日のように各省との協議調整、現場視察、マスコミ対応、政治の根回しなど、1年間休みなしの日々でした。  
 成果も着実にあげることができました。このときを契機に、国の廃棄物行政は、循環型社会を目指したものに転換しました。環境庁を環境省にする道筋もつけることができました。  
 私が、このとき奮い立った理由のひとつに、ふるさとの隣の豊島の廃棄物不法投棄の問題を解決したいとの強い思いがありました。そのとき、中坊弁護士、今はその評価が分かれてるようですが、中坊さんの掲げる「現場第一主義」の理念は、強い説得力を持っていました。私も強く惹かれました。  
 ふるさとに戻り、その豊島が、廃棄物問題をほぼ解決し、アートによって、再生しようとしていることを嬉しく思います。  
 私も、ふるさとの小豆島に戻って、アートとのつながりのある仕事にかかわるとは夢にも思いませんでした。このころの廃棄物問題への取組みが、アートによって瀬戸内海がその本来の魅力と可能性を取り戻す取組みにつながり、その両方を経験できることほど嬉しいことはありません。
 人生は、がんばっていると、思いもよらないつながりと、思いもよらない展開があって、本当に面白いですね。(平成29年2月10日)


豊島美術館
豊島はアートによって、再生しようとしています

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第1862回 高山右近が「福者」になりました


 小豆島にもかかわりの深いキリシタン大名の高山右近が、カトリック信仰の模範を示したとして、ローマ法王庁が「福者」の称号を与える列福式が、大阪城ホールで開かれました。  
 福者は、全世界の教会で崇敬対象の「聖人」となる前段階の称号で、日本では、これまでに天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンら江戸時代の殉教者ら393人が認定されています。世界でも、マザーテレサなどに「福者」の称号が与えられています。  
 右近は、少年時代に洗礼を受け、織田信長や豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。秀吉のバテレン追放令でも信仰を捨てず、1614年には江戸幕府の禁教令で国外追放され、翌年フィリピン・マニラで病死しました。  
 右近は、1587年(天正15年)秀吉のバテレン追放令により追放されますが、当時小豆島の代官をしていた小西行長によって1年間小豆島にかくまわれ、隠遁生活を送りました。  
 隠遁地は中山の奥地とされています。物静かに1年間を小豆島で過ごしました。当時、小豆島にも「隠れキリシタン」の農民たちがたくさんいました。中山をはじめ小豆島の各地には、キリスト教の遺産・遺物がたくさん残されています。  
 島原の乱の後、たくさんの小豆島の農民が日本のキリスト教の聖地である島原半島に幕府の命で移住しますが、中山の農民の一部は、「隠れキリシタン」として、聖地の再生を願って移住したと伝えられています。  
 このように、小豆島は、日本でのキリスト教布教に、深くかかわってきた島です。そして、小豆島は、弘法大師が、小豆島で修行し、その縁で、88か所霊場があり、遍路文化が積み重ねられているほか、神道の文化、伝統も島中にたくさん残されています。小豆島は、宗教とは、きってもきれない深い縁のある島です。  
 この日の右近の列福式には、会場いっぱい1万人を超える信徒の皆さんが出席された、まことに荘厳で、規律ある列福式でした。日本中から、全世界から右近を慕う人々が集まり、ミサが行われました。  
 1万人を数える人々のなかに、小豆島からの参加者もたくさんいて、熱心に右近を研究されている元池田小学校長の日向先生の姿もありました。そして驚いたのは、ミサの最中に、聞き覚えのある声があったことです。「ユスト高山右近は、大名という身分や多くの財産よりも信仰を選び、小豆島、宇土、金沢、長崎など日本各地で生活を送りました。そして、行く先々でキリスト教を伝え、そこには新たな教会共同体が生まれました。祈りのうちに福音の種蒔きを続け、「長い忍耐がいる殉教」に至った右近にならい、わたしたちも自分の置かれた場所で、それぞれの共同体を生かす道具となることができますように」 。
 そう小豆島土庄町の小豆島カトッリック教会の浜野尚作さんの声です。小豆島の信徒と全国の信徒を代表して、この部分を先唱されました。右近の魂は今も小豆島で生きています。(平成29年2月9日)

高山右近列福式のようす

「福者」高山右近記念メダル

中山地区にある
「高山右近潜伏の地」石碑

小豆島に残されている
キリシタン灯篭

小豆島カトッリック教会の浜野尚作さんが
ミサの先唱を担われました

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第1861回 小学生議会


 小豆島町の4つの小学校の六年生が議員になった小学生議会がありました。どんな問題意識を小豆島のこれからを担う小学生が持っているかを知ることができ、とても興味深かっただけでなく、どんな答えをしたら彼らに響くか考えさせられました。
 私は、社会人になってから、ずっと議会というものにかかわる仕事をしてきました。中央省庁では国会、小豆島町では町議会です。  
 議会は、いうまでもなく国民、町民の代表です。国民、町民のすべてが政治に直接かかわることができたら一番いいのですが、それができないので、選挙で選ばれた議員が代表して、その権限を行使して国政や町政の一端を担ってくれています。  
 三権分立という言葉がありますが、行政府、立法府、司法府の三つの権力は、それぞれ分かれて独立していることが、政治がバランスのとれたものであるために必要です。  
 現代の政治は、三権分立の考え方によって行われています。小豆島町の政治も、司法は別にして同じです。町長をトップとする行政と町会議員からなる議会は、役割分担をして、町長をトップとする行政の動きを議会はチェックし、取り組むべき方向をアドバイスします。
 小豆島や小豆島町が元気になっていくためには、町長をトップとする行政と町民の代表である町議会がそれぞれの役割をきちんと分担して担うことが不可欠です。両者は、協力することは徹底して協力し合うとともに、適切な距離感や緊張関係を保ち、それぞれぞれの立場から意見を交わし、議論することで、小豆島、小豆島町を元気にする共通の目標の実現を目指しています。  
 小学生議会は、本物の町議会に負けない、厳しく、鋭い質問の連続でした。
 星城小学校と苗羽小学校の皆さんの質問は、町民の安心、安全のための街灯の整備、さぬき市の大串半島との交流プラン、働く場所づくり、空き家を活用した世代間の交流の場づくり、水族館、アスレチック、生産人口を増やす取組みや町おこし、交通事故を減らす取組み、小豆島中央病院の待ち時間、イノシシ対策、高校へのバス通学のための駐輪場の整備、小豆島中央高校の魅力アピールなどでした。  
 池田小学校と安田小学校の皆さんの質問は、歩道や自転車専用のレーンの整備、素麺づくりや花づくりの活性化、遊べる公園や広場の整備、地震の備え、ごみの不法投棄防止対策、空き家対策、船の運賃の軽減策、小豆島中央病院の課題、小豆島の石の活用策、芸術祭の目的、クラブハウスづくり、東京オリンピック・パラリンピックプの合宿誘致などでした。  
 身近な問題から小豆島の未来を見据えた問題まで、いろとりどり、いずれも的を得た質問でした。そのいくつかについては、機会を見て、このブログでも紹介し、取り上げたいと思います。小学生議会で議論したひとつひとつのテーマについて、これからも真剣に考え、取り組んでいこうと思います。(平成29年2月8日)

町内の4つの小学校の6年生が
議員となって小学生議会が開かれました

本物の町議会さながら小学生から
厳しく、鋭い質問があがりました

自作の資料を使って質問・提案する
小学生議員

星城小学校&苗羽小学校の
小学生議員の皆さん

池田小学校&安田小学校の
小学生議員の皆さん

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第1860回 2月初めの週末


 今年もはや1か月が経ちました。もう2月、春がすぐそこまで来ています。2月最初の週末も、小豆島では、いろいろな催しがありました。  
 土曜日、母校の苗羽小学校で「苗っこフェスティバル」がありました。すべての学年の皆さんがそれぞれ工夫をこらして自慢の音楽を披露してくれました。皆よく練習ができていて感心しました。  
 私は、小学生のころ、とても引っ込み思案で、この日のような行事では、できるだけ目立たないように逃げ回っていました。その私に比べると、どの児童もがんばっています。後の予定があったので、楽しみにしていた「音楽部さよならコンサート」、生活科・総合的な学習の発表は見れず、聞けず、残念でした。  
 大勢の父兄の皆さんで体育館はいっぱいでした。学年によっては、たくさんの児童がいる学年もあって、これだけの児童数が全学年あったら、小学校をこのまま残せるのにと思わずにはいられませんでした。児童数の減少がこれからも避けられない以上、たくさんのこどもたち、たくさんの先生方、たくさんの地域の皆さんの応援のなかで、こどもたちには、しっかりと、学んだり、さまざまな経験をしてもらうことが、こどもたちの未来のために必要だと思います。  
 小豆島の未来を考えると、環境の変化にあわせて、学校のあり方も変化にあわせて、変えていくことが必要です。どうしたら良い学校にしていけるか、これからも皆さんとよく考えていこうと思います。  二十四の瞳映画村の「岬の分教場」に行きました。この日は、小豆島観光協会の国際化チームの「ウェルカム・サポーター」の皆さんが、紙芝居「二十四の瞳」を英語と日本語で披露する日です。   瀬戸内国際芸術祭2016では、たくさんの外国の皆さんが小豆島を訪問してくれました。外国の皆さんに小豆島を楽しんでもらうには、どうしたらいいかと考えました。その答えが、小豆島に暮らす、ありのままの小豆島の人々に、英語で、外国の皆さんの「おもてなし」をしてもらうことでした。  
はたしてどうなるかと思っていたら、国際化アドバイザーの森川光与さんや小豆島観光協会のスタッフが、あっという間に、小豆島中の英語好きの皆さんを集めて、芸術祭期間中に、各港で見事な「おもてなし」をしてくれました。  
 そして、芸術祭が終わったら、今度は、二十四の瞳映画村で、壺井栄の名作「二十四の瞳」の紙芝居をやろうと、とんとんと話しが進みました。  
 この日、二十四の瞳映画村の「岬の分教場」の教室は、海外からのお客さまも含めて、嬉しいことに、満員御礼でした。何よりもウェルカム・サポーターの英語も立派なものでした。海外のお客様にも喜んでいただけたと思います。  
 日曜日は、内海福祉会館で「小豆島のこまいぬたち パネル写真展」があり、この日は、倉敷埋蔵物文化財センターの藤原好二さんの「小豆島の狛犬のルーツ」の講演もありました。熱心に小豆島の狛犬を研究されている小豆島狛犬探究会(代表山西てるみさん)が主催したものです。  
 狛犬とは、獅子や犬に似た獣で、神社や寺院の両脇に置かれている像のことです。小豆島の神社に、たくさんの狛犬の像が置かれています。狛犬は、江戸時代の中期から神社に置かれるようになったようです。  
 小豆島は、江戸時代、瀬戸内海の中央に位置しており、東西交通の要衝でした。そのためか、周辺地域から海運によってさまざまな狛犬が運ばれています。  
 とりわけ経済の取引の多かった大阪の狛犬が多いようですが、尾道型狛犬、備前焼狛犬、徳島型狛犬と多様な狛犬が小豆島にあり、小豆島が当時からいかに豊かなところであったかわかります。明治以降は、狛犬づくりは愛知県岡崎市で盛んに行われ、今は、中国産の狛犬まで小豆島に登場しています。  
 石の産地であった小豆島にも、江戸時代狛犬の石工がいました。吉松という石工はそのひとりです。倉敷で修行し、主に岡山に作品が残っていますが、小豆島には残念ながら狛犬は残っていません。明治時代には、明田為八や前田両助という石工が活躍したそうです。  
 小豆島狛犬探究会は、富丘八幡神社(土庄町淵崎)にある神馬の作者が、関西を中心に狛犬を数多く残した、江戸時代末期の名工、丹波佐吉であることを、台座の銘があることから発見しました。名がとどろいていた佐吉に作品をつくってもらうのは大変だったはずで、当時の小豆島の豊かさが偲ばれます。  
 狛犬ひとつにも、小豆島の石の文化の深さと瀬戸内海の中心として経済の繁栄を勝ち取った往時の小豆島の先達たちの活気を感じます。(平成29年2月7日)

「苗っこフェスティバル」が
苗羽小学校で行われました

音楽を披露した後は
総合的な学習の発表が行われました

ウェルカム・サポーターの皆さんによる
紙芝居「二十四の瞳」の英語と日本語での朗読

ウェルカム・サポーターの皆さんは
芸術祭期間中に各港で海外のお客様に
「おもてなし」を行っていただきました

小豆島狛犬探究会の主催による
「小豆島のこまいぬたち パネル写真展」

狛犬に関する講演会も行われました

小豆島にある狛犬

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第1859回 番外編アーカイブ⑮「行政官の勲章~国会とマスコミ」<下>


 「週刊社会保障」Essay 平成19年3月26日
  「行政官の勲章 -国会とマスコミ- (下)」 (独)福祉医療機構 理事 塩田幸雄  

 子供のころから新聞大好き人間だった。社会の動きに人一倍関心があったのだろう。朝起きて何よりもまず朝刊に目を通す。この習慣は今にいたるまで変わらない。新聞だけでなく、テレビのニュース、週刊誌、夕刊紙、スポーツ新聞などなど、みんな大好きである。  
 ある自治体に出向していたとき、新首長が就任挨拶で次のような趣旨の訓示をした。  
 君たちの仕事を記事の大きさで評価する。それは悪い記事でもよい。批判されたら、それを跳ね返す仕事で答えればよい。  
 記者の方々の取材を受けたり、懇談するのは楽しい。記者の人と話すのが長すぎて、部内の人が時間をとれないと怒られたことも度々あった。現場で起きていること、誰がどう考え、どう動いているか、どう説明すれば国民の納得が得られるか、などなど、彼らとの会話は示唆に満ちている。なんのことはない。こちらが取材させてもらっているのだ。  
 行政官として、仕事を成功に導くこつのひとつは、その仕事がどのような形で記事になるかをイメージすることである。報道は、政府に対して厳しいものになりがちである。それはメディアの性格上やむをえない。それを前提としてどこまで善戦するか。国民は、報道を通してしか事実を知るしかないのだから、まず記者の方々に理解してもらうことが第一。政策実現のための日々のプロセスは真剣勝負、手抜きは許されない。  
 驚く人もいるかもしれないが、新聞なら一面トップ、テレビならヘッドラインを目指して、仕事の構想を練ったことが何度もある。社会的にインパクトがあるものにしたい。大きく取り上げられることで、多くの方々に関心をもってもらえ、問題解決が前進し、はずみがつく。  


行政官として、仕事を成功に導くこつのひとつは
その仕事がどのような形で記事になるかを
イメージすることであると考えます

 もちろんリスクの覚悟もいる。あるとき、社会の関心の高い仕事に奔走していたとき、隣の課で、もっと社会の関心をひく出来事が起き、記者の方々の足がばったり途絶えた。普通なら、ああよかったと思うところだが、主役の座を奪った隣の課をうらやましく思った。  
 国会やマスコミによって、行政は厳しく批判されることが多いので、どうしても行政は国会やマスコミとの関係を避けたいと思いがちである。国会も、マスコミも大好きというのは変わった行政官だったかもしれないが、国民を相手に競いあう点で、国会とマスコミと行政は、本来共通点が多く、緊張感をもって切磋琢磨してほしい。  
 長女が高校受験面接のとき、尊敬する人はと聞かれ、「父です」と答えた。ここまでは想定問答どおりだが、その理由を聞かれ「父はいつも楽しそうに仕事をしています」と答えたらしい。この一言は、行政官として勲章のように思う。

  (注釈)  
 この文章も恥ずかしい限りですが、中央省庁での仕事の感想として、素直な気持ちです。政治と行政とマスコミの関係は、「複雑怪奇」ですが、私にとっては、この文章で書いたようなものでした。私が変だったのか、私のような方もたくさんおられた、おられるのか、よくわかりません。  
 このような想いで、私は、たくさんの忘れることができない経験をさせていただきました。その想いは、今も、少しも変わらず、残っているかもしれません。いや、変わってしまったかな。よくわかりません。皆さんにご迷惑をおかけしていますが、これが僕流です。お許しください。(平成29年2月6日)


国民を相手に競いあう点で
国会とマスコミと行政は多くの共通点があります

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第1858回 番外編アーカイブ⑭「行政官の勲章~国会とマスコミ」<上>


 「週刊社会保障」Essay平成19年3月19日号
  「行政官の勲章 -国会とマスコミ- (上)」 (独)福祉医療機構 理事 塩田幸雄  

 京都の大学を卒業して、修学旅行以来といってよい東京にやってきたのが昨日のことのようだ。社会保障をやりたい故に厚生省を志願したわけではない。ただただ、郷里の期待のようなものを背負って東京を目指し、霞が関を目指したのである。  
 数ある省庁のなかで、厚生省が最も身近で、自分の持ち味に合致していると思った。それに尽きている。今、その判断は、正しかったと思う。  
 行政官として何が楽しかったと聞かれたら、「国会とマスコミ」と躊躇なく答える。一貫してそうである。入省一年生の時から国会の用務やマスコミの取材があると嬉々とした。国を動かし、国について話していると錯覚していたのである。  
 議員立法と呼ばれるものがある。法律のほとんどは、閣法と呼ばれ政府の提案による。障害者自立支援法など政府提案の法律だけでなく、たくさんの議員立法に、裏方のひとりとして関わることができた。数にして十数本。そのひとつひとつの法律に忘れがたい思い出がある。  
 政府提案の閣法が正道で、議員立法は邪道との誤解と偏見がある。立法は、本来、議員立法が基本であるべきである。幸い、このごろ、国民のニーズに応えた骨太の議員立法が数多くなされるようになった。  
 議員立法にはまったのには訳がある。政府提案を待っていたのでは、関係者の思いや必要とされることが実現できないことが少なくない。  
 第一の壁は内閣法制局。前例のない法形式と内容の法案が内閣法制局を突破することは至難である。第二の壁は政府部内協議。協議を行っているうちに、換骨奪胎され、時間ぎれになるのがおちである。


国会議事堂

 議員立法は、議員法制局が、提案者の意図を法文化することを第一に知恵を絞ってくれる。国会の先生方は、現場の切実な声に応えることを最優先に考え、行動される。もちろん政府提案にはない大変さがある。中心となる国会の先生方が立ち上がられることでしか事が始まらない。議員立法は、全会一致が原則だから、立場が異なる与野党の全ての了解が得られなければならないし、特定の党の成果になってもいけない。  
 ひとつひとつの議員立法の過程で、多くの国会の先生方や関係の方々からいろいろなことを学ばせていただいた。法案が成立した時に関係の方々の喜びに接することは行政官冥利に尽きる。これから、もっともっと議員立法が、国の進むべき道筋を示し、国民の期待に応える大きな役割を担ってほしいと思う。政と官の本来の役割のあり方が問われているが、ひとりの行政官として、やりがいや喜びという点で、東京にやってきた初めの想いは、叶えられたと思う。

 (注釈)  
 このエッセイは、中央省庁で仕事をできたことの喜びを率直に書いています。今読むと恥ずかしい書きぶりですが、その想いは、今も変わりません。  
 国会とマスコミへの対応は、当時も、ほとんどの官僚は消極的だったと思いますが、なぜか、僕は、どちらも好きでした。そのことで、 仕事が面白く、楽しく感じることができました。それが良かったのかどうか、わかりませんが、ぼくの人生にとっては、なくてはならないものでした。  
 議員立法をしていただいた国会議員の皆さん、一緒に仕事をさせていただいたマスコミの皆さんには、今も感謝の気持ちでいっぱいです。ぼくはとても変わった官僚だったかもしれませんが、もし、そうしてなかったら、何も変わらなかった、皆さんと一緒に取り組んだおかげで、何かを少しは変えることができた、少しは前に進めることができたと思っています。(平成29年2月3日)


国会議員会館

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第1857回 岡田好平氏叙勲祝賀会祝辞


 岡田好平さんの旭日中綬章の叙勲をお祝い申し上げます。奥様もおめでとうございます。
 私からは、小豆島の人生の後輩、そして小豆島町長の立場からお祝いの言葉を申し上げます。  
 岡田さんに初めてお会いしたのは、東京でした。毎年、東京小豆島会が明治神宮で開かれています。故郷を離れたものにとって、小豆島のことが懐かしく、気になるものです。  
 私は、毎年、小豆島の3町長さんが、どんな話をされるか楽しみにしていました。岡田さんは、いつも笑顔でお話しをされました。小豆島は頑張っている、大変だなと、いつもお話しを楽しく聞かせてもらいました。  
 その私が、後年、岡田さんと一緒に、また後を引き継ぐことになるとは、夢にも思いませんでした。
 私は、8年前に、小豆島町長として小豆島に戻ってきました。どうしたら小豆島を元気にできるか、なかなかいい知恵が見つかりませんでした。それを助けてくれたのは岡田町長でした。ありがとうございました。
 平成の合併が成功していれば、小豆島市が誕生していました。人口減少が続く小豆島は、島がひとつになって課題に取り組まなければ元気になっていけません。  
 小豆島市は実現できませんでしたが、両町が力をあわせて島がひとつになって課題に取り組むべき大きな課題が待っていました。  
 最初の大きな課題は、人口減少と医師不足で行き詰まっていた、両町の公立病院をひとつにすることでした。この難しい課題を岡田町長はリーダーシップを発揮して、見事に土庄町をまとめていただきました。  
 かつての3町の真ん中に病院をつくるのは、当たり前のように思われるかもしれませんが、決して容易なことではなかったと思います。  
 新しい病院は、まだまだ大きな課題をかかえています。島民全員でこの病院を守りたいと思います。もうひとつは小豆島にある二つの高校の統合でした。  
 岡田さんの誠実なお人柄、決断力、町民の皆さんの信頼を得ておられたことがあって、これらは、はじめて実現できたものです。  
 小豆島は、今、元気になる兆しが見え始めていると思います。人口は減少し続けていますが、若い移住者が増えています。瀬戸内国際芸術祭では、大勢の皆さんが小豆島を訪れてくれました。高校生をはじめ若者たちが活躍しています。小豆島が元気になっていくためには、島ぐるみで、島がひとつになって、取り組むことが必要です。観光も、福祉も、教育も、環境も、産業も、すべての分野について言えることです。  
 岡田さんのライフワークである、小豆島を元気にするために、小豆島がひとつになって、いろいろな課題に果敢に取り組み、解決することが、岡田さん叙勲に一番応えることだと思います。  
 三枝土庄町長ともども、小豆島の皆さんの知恵と力をあわせて、島がひとつになって、小豆島を元気にする岡田さんのライフワークを引き継いで、取り組んでいくことを、岡田さんにお誓い申し上げます。  
 この度の叙勲おめでとうございます。(平成29年2月2日)

毎年、明治神宮で開かれている
東京小豆島会

小豆医療組合設立式で岡田さんと
看板を設置するようす

両町の公立病院をひとつにしてできた
小豆島中央病院

岡田さんは島内の二つ高校の
統合についても尽力されました

島がひとつになって、小豆島を元気にする
岡田さんのライフワークを引き継いで
取り組んでいきたいと思います

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第1856回 障がい者差別解消支援地域協議会での挨拶


 障がい者差別解消支援協議会にお集りいただき感謝します。この協議会は、障がいにかかわる差別を小豆島からなくそうとしていく協議会です。小豆島中の企業、商店の皆さん、教育の皆さん、福祉の皆さん、行政の皆さんなどの分野の代表の皆さんに集まっていただいています。  
 私は、長い間、厚生労働省の仕事をさせてもらっていました。その仕事のうち、一番長かったのが、障がい福祉の仕事でした。そのとき、障がいにかかわる差別をなくす法律をつくる動きもありましたが、実現しませんでした。  
 あれから10年、大勢の皆さんのご尽力で、平成25年に「障害を理由とする差別の解消に関する法律」(「障害者差別解消法」)ができ、平成28年4月1日から施行されました。  
 この法律は、地方自治体の関係機関が集まって、障がい差別を解消する取組みを行うための障がい者差別解消支援地域協議会を設置するよう求めています。  
 小豆島は、自然、文化、伝統、産業、絆などに恵まれた素晴らしい島ですが、長い間、人口減少、過疎化に苦しんでいます。このまま大幅に人口が減り続けると、小豆島の宝物を守っていくことができなくなります。  
 そのなかで、大勢の島の内外の皆さんの尽力もあって、小豆島は少し元気になる兆しが見えているように思います。昨年開催された瀬戸内国際芸術祭2016の賑わいはそのひとつです。高校生などの若者の活躍もそのひとつです。小豆島中央病院の開院、小豆島中央高校の開校もそのひとつです。若い方々の移住も増えています。  
 その小豆島で遅れているのが、障がい福祉の取組みです。その障がい福祉も、これから大きく動こうとしています。  
 昨年、香川県教育委員会が、小豆島に特別支援学校をつくる方針を決めてくれました。県教委まかせではなく、私たちも一緒に考え、行動し、協力したいと思います。特別支援学校だけでなく、小豆島の小学校、中学校などでの障害のあるこどもたちへの教育の充実も必要です。障がいのある皆さんの暮らしの場、働く場、交流の場が必要です。
 こうした取組みは、小豆島町と土庄町がひとつになって、島を挙げて取り組むことが不可欠です。今年は、島をあげて、障がい福祉を考え、取り組みたいと考えています。  
 来年度は、両町とも、新しい障がい福祉の3か年の計画をつくる年度にあたっています。両町で、できるところは、一緒に計画づくりをし、具体化していけたらと思います。  
 小豆島が元気になっていくためには、島がひとつになって、いろいろな課題に取り組んでいく必要があります。医療も、福祉も、教育も、観光も、産業も、すべてそうです。障がい福祉もそのひとつです。協議会の皆さんとともに、小豆島の障がい福祉をよくしていきたいものです。(平成29年2月1日)

中山の棚田で田植え体験を行う
障がい者の方々

オリーブの収穫体験を行う
障がい者の方々

特別支援学級の児童を対象とした
演劇のワークショップ

小豆島町障害者グループホーム
(グループホーム ソレイユ)
小豆島町と土庄町がひとつになって
障がい福祉に取り組みたいと考えています

協議会終了後は、「障害者差別解消法」に
ついての講演会が行われました

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