小豆島町長の「八日目の蝉」記 

 私は小豆島に生まれ育ちました。18歳のときこの島を離れ、40年ぶりに島に帰ってきました。島に帰ってから新しい発見の日々です。この島には、今私たちが失いつつあり、探し求めている何か、宝物がいっぱいあります。
 平成22年の3月と4月に、NHKが「八日目の蝉」というドラマを放映しました。小豆島が舞台のドラマです。その後、映画化され、平成23年4月29日に全国ロードショーされました。蝉の地上での命は普通7日です。ですから、8日目の蝉は、普通の蝉が見ることができないものを見ることができます。作者の角田光代さんは、原作で、小豆島のことを「海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」と表現しています。そして、主人公である若い女性に、おなかの中の子に、この景色を見せる義務が私にはあると、語らせています。
 そこで、私は小豆島の「きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」を、これから町長の日々の仕事を通して訪ねてみようと思います。

第1754回 「瀬戸芸は間に合った」続


 瀬戸内国際芸術祭の目指すものは、瀬戸内海という「海の復権」です。瀬戸内海といっても、瀬戸内海は、広大で、さまざまです。私が知っている瀬戸内海は、小豆島のまわりの一部の海と島々に過ぎません。
 尾道市にある常石造船が、株式会社せとうちSEAPLANESという水陸軌陸両用機を使用した遊覧飛行やチャーター便の運航を行う会社を設立しました。水陸両用機で、瀬戸内海をつなぎ、瀬戸内海に新しい何かを創りだせないかと考えています。
 この水陸両用機が小豆島に飛来するようになれば、小豆島だけでなく、瀬戸内海全体の新しい価値と魅力が生まれるかもしれないと、私もそう思います。
 水陸両用機試乗の招待を受けました。水陸両用機をはじめて体験し、「しまなみ海道」の島々をはじめて空から見ました。空から見る「しまなみ海道」の景色は、予想以上に素晴らしいものでした。そして、島々の間の激しい潮流によって、波が白濁しているのを見て、ここに「村上水軍」の雄たちが活躍したのもさもありなんと感じました。
 そして、空からの景色が絶品であること以上に、最も大切なことは、そこに住む人たちが、その島々の大地を活かして、どんな暮らしをし、どんな産業を興し、どんな文化を築いているか、そして、その島々がこれからどこに向かおうとしているのかだと改めて思いました。
 先日、建築家の西沢立衛さんから、こんな話を聞きました。瀬戸芸2013のため、豊島で新しい作品をつくることを依頼されました。そこで、まず空から島を鳥瞰しました。そこから見たのは、美しい自然だけでなく、島の人々の暮らしがどう見えるかだったそうです。
 瀬戸芸の総合ディレクターの北川フラムさんが、この日小豆島を訪れてくれました。この日、北川さんは、二十四の瞳映画村の海岸で、清水久和さんの作品「愛のボラード」を、坂手港で、魚や虫などの生き物をモチーフにした、うつゆみこさんの写真作品、UMA/design farm+MUESUM、ドットアーキテクツの作品「物見台」を鑑賞され、夜は、劇団ままごととスイッチ総研によって坂手のまちで繰り広げられた野外劇「小豆島きもだめしスイッチ」をご覧になりました。
 時間の都合でご覧になっていただけなかったのですが、この夜は、三都半島神浦の出水邸で、赤坂有芽さんの「記憶の箱 光の庭」という2晩限りの野外作品が公開されていました。赤坂さんが出水邸での作品をはじめて展示して今年でもう6年になります。
 こうして寸暇を惜しんで島々をめぐる北川さんの姿勢に頭が下がります。次の日の朝は、大島の国立療養所に入所されていた方の告別式に列席されると聞きました。瀬戸芸が成功している理由の大きなひとつが、北川さんが自ら歩いて、島と島、人と人、世界と島をつないでいることであることを知る人は少ないかもしれません。瀬戸内海の島々の人々の暮らしのあり方を一番考えているのは、もしかしたら北川さんかもしれません。島々に住む私たち自身も負けてはいけません。私たちがどんな暮らしをつくっていけるか、それこそが瀬戸芸が目指している本当の作品だからです。(平成28年8月26日)

株式会社せとうちSEAPLANESの
水陸両用機

愛のボラードの前で、北川フラムさん(左)と
清水久和さん(中)と

坂手物見台を鑑賞する北川フラムさん

参加者の行動がスイッチとなって演劇が
始まる「小豆島きもだめしスイッチ」

赤坂有芽さんの2夜限りの野外映像作品
「記憶の箱 光の庭」

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第1753回 「瀬戸芸は間に合った」


 この夏はことのほか暑いです。気温の高さ以上の熱気を感じます。その理由のひとつは、瀬戸内国際芸術祭2016が開催されているからです。
 瀬戸芸について、いろいろな意見、見方があると思いますが、瀬戸内海の、この場所、この時期に、開催されている意義を感じています。瀬戸芸の目指すものは「海の復権」です。少なくとも、小豆島について、「海の復権」に、ぎりぎり「瀬戸芸は間に合った」と、私は考えています。
 もし瀬戸芸の開催があと数年先であったり、開催がなかったならば、小豆島は再生のチャンスをつかむことは難しかっただろうと思います。ぎりぎり「間に合った」小豆島は、少しずつですが、本来の力を取り戻そうとしているように思います。
 「本来の力」とは何でしょうか。定義することは、難しいのですが、とりあえずは、「そこに住む人々が、その地域に蓄積された自然、生活、文化、伝統、暮らし、絆などについて、誇りを感じ、それらのことを、そこに住む人々が、自分たちの知恵と力で、守り、磨き、次世代につないでいく力」としておきます。
 その意味で、小豆島は、人口が減ったとはいえ、3万人の人々が、暮らし、多様な文化、伝統、産業、絆がしっかりと残されています。瀬戸芸は、それらの価値について、私たちに気づかせてくれ、島の外の多彩な人々が、それらを守り、磨き、伝える取組みに参加してくれようとしています。
 この週も、小豆島でいろいろな取組みがありました。坂手の旧JAの建物eiの2階に「劇団ままごと」がカフェをしていました。この日は、劇団員の方が即席パフォーマンスをしてくれました。主宰の柴幸男さんは、サイコロを振って、その図柄をつないで小話をしてくれました。建築デザイナーのあんどうりょうこさんは、「いつも3万人の暮らしのことを考えている」という私の話をデッサン画にしてくれました。
 狂言師の野村太一朗さんが町役場を訪ねてきました。3年前の芸術祭で中山農村歌舞伎舞台で狂言の公演をしてもらいました。当時はまだ大学生でしたが、今は卒業し、狂言師としてだけでなく、先輩の野村萬斎さんと同じように幅広い分野での活躍が期待されています。いつか小豆島で、お二人の共演があればと夢見ます。
 今年も神戸常盤大学の教員と学生の皆さんが小豆島に研修に来られました。神戸常盤大学は、小学校の教師、保育士、看護師、歯科衛生士、臨床検査技師などを目指す大学です。子育てのあり方について当時同大学で教鞭をとっていた小崎恭弘さんに講演してもらったのがきっかけです。
 神戸常盤大学に私が興味を感じるのは、大学が小豆島とのかかわりの深い神戸市長田区にあることとともに、大学の内容が、少子高齢化が進むなかで必要不可欠な人材育成に徹していることです。私が重要だと思う福祉・医療・教育の政策分野に重なっています。そして、大学の理事者、教員、学生の皆さんと接してみて、皆さんが気さくで、真剣そのもの、とにかく、ざっくばらんで気が合うのです。
 というわけで、今年で4年目(うち1回は台風で中止)、小豆島を医療と福祉と教育を学ぶフィールドにしてくれています。今年は、早速小豆島中央病院で研修をしました。彼らが見た小豆島中央病院についての感想は、私を勇気づけてくれました。卒業生が小豆島で活躍する日が遠からず訪れるかもしれません。(続く)(平成28年8月25日)

現在開催中の瀬戸内国際芸術祭2016は
熱気を帯びています

瀬戸芸の目指すテーマである「海の復権」

坂手のei2階で「劇団ままごと」が営業する
喫茶ままごと

あんどうりょうこさんに書いていただいた
「いつも3万人の暮らしのことを考えている」
(クリックすると拡大できます)

3年前に中山農村歌舞伎舞台で狂言の
公演を行った狂言師の野村太一朗さん

神戸常盤大学の学生の研修のようす

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第1752回 若者たちが活躍する夏


 この夏、オリンピックと高校野球での若者たちの活躍に日本中が湧いています。小豆島でも若者たちが同じように、この夏活躍しています。活躍している若者たちを見ていて、一途さ、さわやかさ、集中力を力強く思い、うらやましく思います。これからの日本は、そう心配したものではないと思います。
 むしろ、心配なのは、私たちの世代が、どんな高齢期を送るかです。私たちの世代は、子どものころから、何事においても、かなり恵まれた世代です。私たちが過ごした時代が、平和で、人口が増え、経済が成長する日本の「上り坂」の時代だったからです。
 私たちの世代は、引退後は、公的な社会保障が支え守ってくれると考えてきました。でも、日本全体が、人口が減り、経済の成長が停滞する「下り坂」になり、社会保障の負担を、若者たちが負うことを考えたら、「私たちの世代の問題は、私たちの世代で助け合って、解決する」と、覚悟を決めるべきなのだと、私は思います。
 それを政策にすると、例えば「地域包括ケア」を実現することになります。「地域包括ケア」とは、高齢者が、地域社会で暮らし、役割を持って、健康で、長生きすることに努めることです。高齢者が、健康づくりに努め、地域社会とのかかわりを持ち、地域社会に貢献できる活躍の場を持つことです。
 この夏、小豆島でも、若者たちが大活躍でした。
 ひとつは、「夏の分教場」です。小豆島で生まれ育った大学生たちが、後輩の中学生、小学生の勉強を、小豆島中学校の教室に集まって手伝いました。この企画は、小豆島町の商工業者、教員OBなどが中心の「21世紀を考える会」が主催し、今年で5回目になります。この企画、大学生にとっては、ふるさとへの恩返しになり、ふるさとのことを大切にする思いを持ち続け、小、中学生を教えることで自分の勉強にもなるし、小、中学生にとっては、勉強のコツを覚え、先輩たちに触れることで、目指すべき目標のイメージをつかむ機会になるはずです。
 今年の小豆島まつりは、36回目でした。夏の行事として、すっかり定着し、想像以上に大勢の皆さんが会場のB&Gグラウンドに集まりました。花火も良かったのですが、今年は、小豆島高校の書道部、吹奏楽部、応援団、野球部の皆さんが、素晴らしいコラボのパフォーマンスをしてくれました。
 来年3月閉校する小豆島高校の校歌などを、応援団のリードと吹奏楽部の伴奏で、会場いっぱいに集まった皆さんと歌いました。秋に香川県高校野球大会があるので、まだまだみんなで校歌を歌う機会があります。年末には全国高校駅伝大会もあります。
 書道部の皆さんは、全員で、未来に向けての希望とこれまでの感謝の気持ちを大きな書にしてくれました。あまりに見事なので、例えば、小豆島中央病院のエントランスホールで展示して、たくさんの皆さんに鑑賞してもらいたいと思います。
「未来永劫
 あたり前の日々や 
 たくさんの愛に感謝
 続いていく
 みんなの想いを
 力に変えて進んでいこう
 仲間と共に
  小豆島高校書道部」 (平成28年8月24日)

「地域包括ケア」とは、高齢者が地域社会で
暮らし、役割を持って、健康で、
長生きすることに努めることです

小豆島で生まれ育った大学生たちが帰省し、
「夏の分教場」が開校されました

小・中学生に勉強を教える大学生


小豆島まつりでは、甲子園を盛り上げた
小豆島高校応援団と吹奏楽部の
パフォーマンスが行われました

書道部は未来に向けての希望とこれまでの
感謝の気持ちを大きな書にしました

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第1751回 今年のお盆 高校のクラス会


 今年のお盆、高校のクラス会もありました。私が通った高校は小豆島高校です。小豆島高校は、本年度限りで長い歴史を閉じます。来年4月には、隣町にある土庄高校と統合し、小豆島中央高校として再出発します。
 小豆島高校は、今年の春、はじめて全国選抜高校野球大会に、21世紀枠として甲子園に出場しました。小豆島で生まれ育った選手だけで、甲子園に出場するという夢を叶えてくれた後輩たちを誇りに思います。
 小豆島高校はそこそこ進学校です。入学式の祝辞で校長先生が「君たちは島の最高学府に入学したことを誇りに勉学に励んでほしい」と訓示されたことを忘れもしません。
 そのころ土庄高校は、商業科の高校だったので、島の進学希望者は、すべて小豆島高校に入ってきました。試験の成績によってクラス編成がなされていたので、私のクラスの同級生は、都会の進学校に負けない学力のレベルでした。
 先輩たちも、毎年、東大、京大、阪大、早稲田大、慶応大などに進学していたので、先生は、「都会の進学校の生徒に負けるはずがない。がんばれ」と叱咤激励しました。先生方も、小豆島出身のレベルの高い先生と大学を出たばかりの新進気鋭の島外出身の先生が揃っていました。
 そういう先生方のなかで、私は、京都大学を卒業した池田先生と東京教育大学を卒業した六車先生に少なからざる感化を受けました。二人はともに数学の先生でした。だからといって数学が好きになったのではなく、「知性」というものにあこがれたのでした。
 私が3年生になったとき、二人は結婚し、池田先生は、高校教師を辞め、九州大学大学院に進学し、再び数学を研究するようになり、六車先生も後を追って小豆島を離れ、九州に行ってしまいました。
 その二人の先生にクラス会で会うことができました。当然のことながら、お二人とも70歳代、もう現役の先生ではありませんが、私たちにとって、先生は今も先生のです。
 池田先生は池田先生らしい思いどおりの学問を追いかけた人生だったようです。六車先生は池田先生を支え続け、充実した教師人生であったようです。お二人は、今は、池田先生のふるさと近くの岡山県の中山間地で暮らしておられます。
 池田先生に言われ、はっとしたことがあります。それは、50人くらいのクラスなのですが、物故者が10人を超えています。そのなかの何人かについて、池田先生は、「彼らは、安心して生きていく場所を見つけることができなかったのだろう。みんなで黙とうをしよう」と提案されました。池田先生は、今も池田先生のままです。
 ぼく自身は、小豆島高校の先生方と仲間たちとの交流を通して、自分が目指すものを、段々とつかんでいくことができたことを感謝したいと思います。(平成28年8月23日)

小豆島高校は、本年度限りで
長い歴史に幕を閉じます

来年4月には、隣町にある土庄高校と統合し、
小豆島中央高校として再出発します

全国選抜高校野球大会に、21世紀枠として
甲子園に出場した小豆島高校野球部

甲子園出場を記念した石碑が
正門入ってすぐのグラウンド横に設置されました

クラス会での集合写真

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第1750回 今年のお盆 小学校のクラス会


 今年もお盆がやってきました。今年も猛暑のなか、盆踊り、花火大会、川めしなど、伝統の行事がたくさん小豆島でも各地で行われました。
 子どものころ、我が家では、お盆、親戚が一同に会するのがならわしでした。全員で50人ほどです。集まって、食事をして、歓談しました。
 50人のなかで、僕は、下から二番目の年齢、親戚のお兄ちゃんやお姉ちゃんの後についてまわり、いろいろなことを学びました。
 ぼくは、小学生のころ、いるのかいないのかわからない、おとなしい児童でした。6年間、クラス替えがなく、同じ仲間と6年間をともにしました。そのメンバーと、隣のクラスをあわせた苗羽小学校のクラス会がありました。
 今年は、そのうちの二人に明るい話題があり、その祝賀会も兼ねました。一人は佐伯栄治君です。香川県の美術展で県知事賞を受賞しました。中学校の美術の教師を三木町でし、今も農業をしながら絵を描くことを楽しんでいます。
 もう一人は岸本辰美さんです。特別養護老人ホームの介護スタッフとしての活躍が認められて、叙勲の栄誉に浴しました。岸本さんは、今年の瀬戸内国際芸術祭2016の、息子さん夫婦が企画運営する「本からうまれる一皿 壺井栄と庚申の夜」の取組みを影で支えています。
 集まった同級生のほとんどは小豆島で暮らしています。今年度中には、全員が前期高齢者になりますが、完全引退した人はわずかで、ほとんどの人は、いろいろな分野で、今も現役として活躍しています。
 島外に住む同級生とは久しぶりに会いました。小西郁生君は、京都大学医学部大学院教授を終えて、今は京都医療センター院長の重責を担っています。日本全体の産婦人科学会の会長の 任にこの間までありました。
 鈴木啓三君は、電気の専門家として、自衛隊に入り、イージス艦の船長をしていました。今は経験を活かして造船会社に勤めています。函館に単身赴任です。仕事の性格上、現役のときもほとんど単身赴任だったそうです。
 西谷明君は、東京で光関係の技術者として、社員ひとりの会社を経営し、研究者や企業の要請に応じて、研究機器をつくっています。「小豆島には神秘的な何かが宿っている」と、いつも楽しく話してくれます。
 その他にもいろいろな人がいて、小さな島の小学生の仲間は、多士済々です。嬉しいのは、みんな小学生のころの雰囲気を残し、ほとんど変わっていないと感じられることです。人前に出ることが苦手だったぼくが、今では人前で話すことができるようになっていることが最大の変化かもしれないのですが、実は、奥底は、何も変わっておらず、今でも、人前で話すときには、気合を入れ、スイッチをオンにしてから話しています。
 ぼくが、町長としての仕事をこなせているとすれば、その秘密のひとつに、小学校の同級生の存在があります。教育長の後藤巧君は、幼稚園以来の信頼関係があり、何でも率直に話すことができます。町会議員の中松和彦君は、誰もが認める人格円満者で、その人柄が染み出るような質問をいつもして、町政のあり方をチェックしてくれています。
 町内の水道工事を一手に引き受けて、水を守っている人も、役場の現場臨時職員として、縁の下の力もちをしてくれている人も、地元の佃煮会社の営業担当として全国を駆け回った人など、いろいろな同級生がいます。いろいろな同級生がいてくれることで、ぼくは町長として何とかつとまっています。(平成28年8月22日)

県無形民俗文化財の安田おどり


小豆島まつりでの花火大会


町無形民俗文化財の別当川での川めし


香川県の美術展で県知事賞を受賞した
佐伯栄治君の作品

社会福祉功労で瑞宝双光章を受章された
岸本辰美さんは、瀬戸内国際芸術祭2016で
息子さん夫婦が企画運営する「本からうまれる
一皿 壺井栄と庚申の夜」を支えています

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第1749回 小豆島町空き家対策等協議会


 小豆島町には、2,288戸の空き家があります。これからも増えていくでしょう。一方で、空き家を求める人たちがたくさんいます。空き家に住んだり、空き家をお店に活用したり、ギャラリーにしたいと考える人がいます。
 空き家を有効活用できるかどうかは、これからのまちづくりや地域づくりの成否をきめる重要なポイントのひとつです。小豆島町では、小豆島町空き家等対策協議会を設置して、空き家活用対策を考えることにしました。
 空き家の問題は、小豆島のみならず全国的な課題になっています。しかし、この問題に対応できる法制度が追いついていません。現行の法制度は、個人の財産権を保護するあまり、危険な建物や利用可能な建物があっても、所有者の了解が得られない限り、行政として手がだせません。
 例えば、相続で多数の所有者がいたり、相続者が連絡不能なとき、了解を得る手続きが事実上困難な場合が少なくありません。これを解決できる特別な立法が求められていたのですが、一昨年、百点満点ではありませんが、それなりの対応が可能になる「空き家等対策の推進に関する特別措置法」ができました。
 この法律ができたことで、市町村が「空き家等対策協議会」を設け、「空き家等対策計画」をつくると、かなりなことができるようになりました、そこで小豆島町では、早速、協議会を立ち上げ、計画をつくることにしました。
 小豆島町でも、移住を希望される皆さんのための空き家バンクがあります。空き家バンクは、これまで、それなりの成果と役割を果たしていますが、これからもっと大きな役割を果たすことができると思います。
 よく考えると、空き家の活用は、移住者のためだけでなく、住まいを求めるUターン者、地域の若者などすべての利用を希望する人にとって期待されることです。空き家の活用は、もちろん、持ち主にとっても、地域の人にとっても、いいことです。
 空き家バンクは、行政の姿勢も、いいことをしてるのだからいいだろうという段階から、いろいろな人の協力を得て、地域づくりのための大切な仕事として位置付けて取り組む段階にきています。
 協議会には、住民の代表、不動産業の人、建築業の方、移住者の方、警察、法律の専門家、子育て・福祉の関係者、宗教関係者など、いろいろな皆さんに集まってもらっています。空き家と移住者をつなぐ取組みを行っているNPO法人Totieの関係者も参加しています。これから関係者の知恵を総結集して、空き家対策に取り組んでいきます。(平成28年8月19日)

空き家を有効活用できるかどうかは、
これからのまちづくりや地域づくりの
成否をきめる重要なポイントのひとつです

移住者の方々などには、空き家に住んだり、
お店に活用したいと考える人がいます

小豆島町空き家対策等協議会を立ち上げ
「空き家等対策計画」を作成します

小豆島町では、移住を希望される方のための
空き家バンク制度があります

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第1748回 ハローワーク土庄小豆島活性化懇談会(チーム小豆島)


 「働く場」を持てること、持つことは、人が生きて、暮らしていく上でとても大切なことです。どんな「働く場」を持てたり、持つことで、一人ひとりの人生は変わってくるし、地域社会のあり方も、国全体のあり方も変わってきます。
 私たちの小豆島の「働く場」は、どうなっているでしょうか。小豆島町で言えば、小豆島町は、島にもかかわらず、醤油、佃煮など食品産業が盛んで、多くの人が食品工場に勤めています。特筆すべき特徴です。今は、農業、漁業などの一次産業に従事する人はわずかです。
 仕事を求める人と探す人のマッチングを公的に行うのが「ハローワーク」です。「ハローワーク」は、国の機関で、厚生労働省に属しています。日本では、職業あっせんは、国の仕事、厚生労働省の仕事とされ、地方自治体の仕事とはされていません。その仕事を小豆島で行っているのが、「ハローワーク土庄」です。
 今度、ハローワーク土庄が、「ハローワーク土庄小豆島活性化懇談会」を設置しました。地味なことですが、とても画期的なことです。
 メンバーは、ハローワークの所長以下のスタッフ、小豆島町、土庄町の商工会の会長、企業が参加する小豆島法人会、小豆島、土庄高校の校長、香川県小豆事務所長そして両町長です。
 そのメンバーが何だと思うかもしれませんが、このように雇用や就職マッチングについて、このようなメンバーが一同に会し、情報を交換し、共有し、改善策を考えるのは、初めてのことです。小豆島ではもちろんはじめてですが、もしかすると香川県でも、全国でも事例はほとんどないのではないかと思います。
 なぜなら、人口が増加し、経済も順調に発展している時代にはハローワークは、おそらくは「ハローワーク」は、待ちの姿勢で、仕事をこなすことができたと思います。地方公共団体は、職業あっせんは、国の仕事だし、民間にまかせっきりでした。学校と企業は個々に頑張っていたのだと思います。
 さて小豆島の現状です。醤油、佃煮などの地場産業は、苦しみながら善戦しています。今は人材確保が大変です。島内の働ける年齢層の人口が減少しています。また、工場などの現場よりも事務系を好む人が増えています。だから好況でなくても求人難です。地場産業にはもっと元気になってほしいです。そのためにもいい人材にその仕事についてもらうことが必要です。
 高校生は9割の生徒が進学などで島を離れます。1割の島内で就職する生徒には、本人が希望する職場についてほしいものです。進学後、Uターンして、是非とも小豆島で仕事を得てほしいです。そのためには、魅力ある職場が小豆島にあることが必要です。
 小豆島への移住者がここ数年増えています。移住者の皆さんにも、希望の仕事についてほしいし、島の人が思いつかない新しい仕事をつくりだす人もいます。大いに期待しています。
 この日、オリーブ公園のサンオリーブで、小豆島中の37社が参加しての合同就職説明会があり52名の就職希望者が参加しました。今回で6回目です。地味ですが、これも良い取組みです。  この日は、小豆島移住希望者のツアーも開かれました。移住者の向井さんなどが中心に発足したNPO法人トティエが主催しました。一行は、この会場にも訪れました。ハローワーク土庄の皆さんが移住者の先輩の体験などをわかりやすい資料で説明してくれました。
 このように、いろいろな取組みが複合的に行われていくと、きっといつか成果が得られていくと思います。この日の会議でも、ハローワーク土庄の情報を、両町や小豆島観光協会のホームページに載せたり、リンクをはったらどうかという提案がありました。早速実現したいと思います。「良い働く場」確保のための「チーム小豆島」が動き出しました。(平成28年8月18日)

小豆島町は、醤油、佃煮などの食品産業が
盛んで、多くの人が食品工場に勤めています

農業、漁業などの一次産業に従事する人は
わずかとなっています

職業あっせんを行う
ハローワーク土庄

ハローワーク土庄小豆島活性化懇談会の
会議のようす

小豆島の37社が参加しての
合同就職面接会が行われました

NPO法人トティエ主催の移住体験ツアー

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第1747回 小豆島高校の跡地のこれから


 小豆島高校は来年3月末で歴史を閉じます。小豆島中学校、小豆島女学校を含めると、96年もの間、小豆島高校のあるこの場所は、小豆島の教育の中心でした。
 私も小豆島高校の卒業生です。入学式のとき、湯川明夫校長先生が、「君たちは、島の最高学府に入学したことを誇りに勉学に励むように」と訓示されたことを昨日のことのように覚えています。
 小豆島高校は、教育の場として、最高の環境条件にあります。多くの皆さんの努力によって、「島の最高学府」としての役割を立派に果たしてきました。とりわけ、今年の春の全国選抜高校野球大会での野球部の甲子園での活躍は見事で、全国に小豆島高校の名を知らしめてくれました。
 小豆島高校学び舎とグラウンドは、来年の3月で役割を終えます。何もしないでいると、香川県が所有する財産としてただ保有されるだけのものになってしまいます。小豆島高校という私たちの財産を、その担ってきた歴史に相応しいかたちで、これからも活かしていくことを皆さんが期待しているはずです。
 そこで、小豆島高校跡地を、小豆島町、小豆島の「総合的な教育・文化・スポーツの拠点施設」として活用することを提案したいと考えています。
 何といっても、こんなに優れた静かな環境に、グラウンドがふたつあり、利用可能な体育館がふたつあります。これらを活かして、教育・文化・スポーツの場として、これからも利用するのが一番だと思います。
 内海地区の小学校をひとつにすることを考えています。小さな規模の小学校として存続するよりも、もっと児童数も多く、先生方の教える体制も充実した、ひとつの小学校にすることが、これからの小豆島のこどもたちのために必要だと思います。
 この小学校を今の小豆島中学校に置き、中学校を小豆島高校跡地に移してはどうかと考えています。小学校をここに置くこともあり得るかもしれません。
 小豆島高校野球部の練習グラウンドは、引き続き、野球専用のグラウンドとして、広く活用していけるようにしたいと思います。このグラウンドには、甲子園出場の記念碑が立っています。「野球の聖地」になればと思います。
 旧体育館と東館は、演劇など文化、アート活動の拠点として活用できるように思います。昨年の劇団「ままごと」の「わが星」のような公演などが、これからもできればと思います。普段は、中学校などのスポーツ活動にも利用してもらうなど多様な活用も可能です。
 もうひとつのグラウンド、体育施設も新しい学校ができるまでは、引き続き、幅広く利用してもらいたいと思います。
 「総合的な教育文化スポーツの拠点施設」としての小豆島高校跡地の活用のあり方について、多くの皆さんの意見も聞きながら、これから香川県教育委員会と具体的な協議を始めたいと考えて います。(平成28年8月17日)

来年4月に統廃合する小豆島高校

野球部の練習グラウンドは、引き続き、
野球専用のグラウンドとして、
広く活用していけるようにしたいと思います

グラウンドの横に設置されている
甲子園出場記念碑

小豆島高校旧体育館

昨年劇団「ままごと」による「わが星」の
公演が旧体育館で行われました

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第1746回 これからの学校のあり方


 学校、教育のあり方は、とても大事なことです。私自身の人生を振り返っても、そう思うし、一人ひとりすべての人にとってそうだと思います。
 そして、これからの地域社会や国のあり方、世界のあり方にも、学校、教育のあり方が深くかかわります。
 小豆島の学校、教育のあり方について、私は、町長に就任して以来、ずっと自分自身の経験をもとに、地域社会との強いつながりを持てる、今ある小学校を残すことが、子どもたちにも、地域社会にも良いことだと思っていました。
 しかし、いろいろな意見に接したり、状況をみているうちに、私の考えは変わりました。現にある地域社会と学校が私のころとは違うことに気づくようになりました。
 私が子どものころは、地域社会は、元気で、まわりにいろいろ勉強できる人生の先輩たちがいっぱい活躍していました。学校にも、いろいろなタイプの生徒がたくさんいて、相互に切磋琢磨することができました。
 今の状況はそうではなくなっています。地域社会も人口が減り、弱くなっているし、学校も生徒数が少なくて、子どもたちがいろいろ学んでいくには、学校、教育のあり方について、さまざま工夫、改善が必要だと思うようになりました。
 社会は、これからも大きく変わっていきます。子どもたちが大人になったとき、子どもたちがそのときの社会で生きていける力を身につけることが、学校、教育に求められます。そのためには、学校、教育のあり方も社会の変化に対応して変えていけねばならないと思います。
 これからの小豆島町の学校、教育のあり方について、小豆島町総合教育会議や町議会で議論してもらっています。先日、その場で、現時点で、私が考えている学校、教育のあり方について説明させてもらいました。この考え方について、これから町民の皆さんの意見を聞いて、ひとつひとつ取組みを進めていこうと思います。
 今ある旧内海町の小学校はひとつに統合したいと思います。生徒数が多いなかで、子どもたちに切磋琢磨して勉強などに取り組んでほしいと思うからです。先生方にも、ひとつの学校で切磋琢磨してもらい、力を結集して、小豆島らしい特色ある教育ができるようにしたいと思います。
 今の子どもたちは、コミュニケーション能力が十分ではないと言われています。私の時代は、家族や地域社会や学校のなかで、大勢のなかでもまれて自然にコミュニケーション能力を身につけたように思いますが、今の子どもたちは、そのような機会が十分ではなくなっています。
 国際化も否応なしに進んでいます。国際的な理解や交流を進めるためにも、自分たちのふるさとのことを知り、誇りを持ち、違った文化や社会への理解力が必要となります。そのためにも、コミュニケーション能力が必要です。
 私たちが子どものころは、地方で育ち、学ぶメリットが都会よりもあったように思いますが、今は都会の方が圧倒的にメリットがあるように思います。例えば、都会の子どもたちは、一流の芸術や文化、人物たちに接する機会があります。学習塾なども充実しています。自然に触れ合う機会までもが、自然学校などで都会の子どもたちの方が恵まれているように感じます。
 小豆島で学び、育つメリットを最大限に活かすとともに、そのデメリットを最小にするために、ある程度の規模の学校で、子どもたちも、先生も、地域の力も結集して、レベルアップを図りたいと思います。
 各小学校の建物は耐震性はありますが、老朽化しており、そう遠くない時期に建て替えが必要となります。そのとき同じところに新しい学校をつくることができるかと言えば、これからの町の財政状況から見てそう簡単なことではないと思います。
 10年後、20年後、その先を見据えると、今の段階で、これからの学校、教育のあり方について、みんなで考え、合意して、ステップ・バイ・ステップで、学校、教育のあり方を変えていくことが必要だと思います。これからの子どもたちのためです。(平成28年8月16日)

苗羽地区にある苗羽小学校

安田地区にある安田小学校

草壁地区にある星城小学校

幼・小・中・高の校長や教育委員などで
構成されている小豆島町総合教育会議

コミュニケーション能力を養うための
演劇ワークショップ

ふるさと小豆島の文化などを学ぶ
ふるさと学習

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第1745回 小豆島の暑い夏の週末<続>


 次の日、日曜日も暑い一日でした。
 朝一番、小豆島ふるさと村イベント広場で、小豆島町長杯ゲートボール大会がありました。今年で11回目です。旧池田町時代から行われていた大会を小豆島町発足後も続けています。
 小豆島町では、ゲートボールが盛んです。とりわけ池田地区で盛んです。全国大会での優勝経験もあります。子どもたちの間でもゲートボールは盛んで、今年も池田地区の豊栄ジュニアチームが全国大会3位でした。
 ゲートボール大会であいさつをして、三都半島に向かいました。三都半島では、今年の瀬戸内国際芸術祭2016では、広島市立大学を中心にさまざまなアート作品が展示されています。
 三都半島は、日本の原風景とも言える景色が残されています。海と山が織りなす優しい風景です。神浦地区では、地元の皆さんが自慢の採れたての果物や野菜をフルに活かしておもてなしをしていました。
 裏方の婦人部の皆さんだけでなく、地元の自治会の会長さんはじめ、いわゆるお偉ら方も汗だくだくになって、奮闘しています。大阪から帰って来たという里帰りの可愛いお孫さんがかいがいしくお手伝いをしていました。
 ウマキキャンプに立ち寄りました。ウマキキャンプは私の実家にあります。3年前の瀬戸芸のころは、私はここで暮らしていましたので、夏の瀬戸芸期間中、訪れる皆さんとよく談笑したものでした。
 今年、ウマキキャンプでは、特段の新しい取組みは、ありませんが、8月8日の夜に「建築ミーティング」が予定されています。新進気鋭の建築家がウマキキャンプに集まり、これからの建築について語り合います。西沢立衛さんも参加されるという、東京でもありえない贅沢なミーティング、小豆島にとっては、光栄極まりないミーティングです。
 瀬戸芸と言えば、どれだけたくさんのお客さんが訪れたかということに注目が集まりがちですが、それよりも、アーティストにとっては、どれだけ本物の作品をつくれたか、どれだけ本物の価値を伝えることができたかが大事だろうと思うし、私のように社会政策を仕事にしているものにとっては、アートが、どれだけの、どんな影響と変化を、人々と地域社会に及ぼして、それによってどんな社会政策の実現につながっていくかに関心があります。
 はじめて、オリーブビーチの海の家で休みました。かつては、夏の小豆島と言えば、海水浴が定番でした。大阪からの船は、海水浴客でいっぱいでした。今は、アートを訪ねるお客さまもまじっていっぱいです。小豆島の夏、海も、アートも、いろいろなことを楽しめることを、感慨深く思います。(平成28年8月15日)

池田地区では、町内でも盛んに
ゲートボールが行われています

神浦地区では、地元の皆さんが採れたての
野菜などのおせったいを行っています

三都半島では、、広島市立大学を中心に
さまざまなアート作品が展示されています

新進気鋭の建築家がウマキキャンプに
集まり、行われた「建築ミーティング」

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第1744回 小豆島の暑い夏の週末


 8月最初の小豆島の週末はうだるような暑さでした。大気の暑さももちろん瀬戸内国際芸術祭2016の盛り上がりもあって、小豆島は熱気にあふれていました。
 土曜日の午前中一番に草壁港で地元の婦人会の皆さんが、瀬戸芸のお客さまのお接待で、「みなとカレー」を提供されていると聞いて、訪ねました。
 有害鳥獣としてやっかいものの猪の肉を活かした、とても美味しいカレーが提供されていました。トコロテンもいただきました。とれたてのトマトなどの野菜も美味しくいただきました。
 草壁港周辺は、今回の瀬戸芸ではじめてアート作品の展開がされています。インド作家のサルナス・バナルジーさんが、政治風刺画と言っていいのかどうかわかりませんが、とてもスケール感のある、気になる作品が展示されています。
 サルナスさんは、今、インドではなくドイツで住んでおられます。小豆島での制作のため滞在されていたとき、お会いしたのですが、その時の印象を忘れることができません。小豆島に来て数時間しか経っていないのに、私をじっと見つめて、「メイヤーはこの島で何をしたいのか」と問い詰められました。
 草壁港では、小豆島の石をつかった中山英之さんのアート作品のトイレ「石の島の石」の制作が急ピッチで進んでいます。完成は8月末で、出来上がりが楽しみです。
 小豆島に移住を希望されている皆さんのガイドツアーの昼食に参加しました。この企画は、土庄町と小豆島町そして移住者と島をつなぐNPO法人Totieの主催でした。15名ほどの幅広い年齢層の方が参加していました。
 昼食は、「ポンカフェ」という移住者が経営されているお店で行われました。移住希望者と歓談できたこともよかったのですが、それ以上に先輩の移住者であるこの店の経営者の方の話しに引き込まれました。
 学生時代の研究テーマが小豆島でした。小豆島の文化と人情にひかれ、ついには移住するまでになりました。12年前のことですから、瀬戸芸も、八日目の蝉もまだ小豆島に現れていません。まだ農村歌舞伎の凄さに目を向ける人も少ないときのことです。
 いくつかの職業の後、たどりついたのが、今の飲食店をしながら学習塾をすることです。仕事としては、学習塾が7割のウェイトだそうです。生徒さんの多くは、飲食店のお客さんのお子さんとその口コミの生徒さんだそうです。小豆島のことを考える私にとっては、ご夫婦が小豆島の文化を大切にされ、とても頼りがいがある、同士に思えました。
 夕方は、池田地区の三世代ふれあい祭りに参加しました。池田地区は、新しい病院もでき、来年4月には新高校も誕生します。バスが300円で島内を移動できるようになったので、これから池田への人の流れが出来そうです。
 この日は、ブルービートという島を代表する音楽仲間の演奏が予定されていました。想定外のことでしたが、急に歌うことをお願いされ、調子に乗って歌ってしまいました。聞かれた方には、騒音でしたが、本人は大満足でした。
 その後は、苗羽小学校に向かいました。なんと今回で45回目という「たそがれコンサート」が開かれていました。うだるような暑さの体育館にぎっしり人が集まっていました。
 今年は、苗羽音楽部の演奏、地元のコーロ・オリーブの合唱だけでなく、神戸から「こべっこ少年少女合唱団」の合唱、それからもう14年間も苗羽小学校音楽部を指導していただいている宮本慶子さん率いるマリンバ合奏団「宮本慶子とアンサンブルローザ」のマリンバ演奏がありました。音色の素晴らしさに暑さをすっかり忘れてしまいました。
 いつまでもこの「たそがれコンサート」が続くことを願い、神戸と小豆島の関係をこれからももっと大切にしたいと思いました。苗羽小学校の皆さん、苗羽の皆さん、神戸のみなさん、宮本慶子さん、仲間の皆さん、素晴らしい音楽を聞かせてもらい、ありがとうございました。(続く)(平成28年8月12日)

草壁港では地元の婦人会の皆さんが
お接待で、「みなとカレー」を提供されています

インド作家サルナス・バナルジーさんの作品
「Haragei」

草壁港で、小豆島の石をつかったアートのトイレ
「石の島の石」を制作している中山英之さん

移住を希望されている方々の
ガイドツアーで移住者が経営されている
「ポンカフェ」を訪ねました

池田地区の三世代ふれあい祭りでの
ブルービートの演奏のようす

苗羽小学校で行われた
第45回たそがれコンサート

14年間苗羽小学校音楽部を指導してる
宮本慶子さん率いるマリンバ合奏団の
マリンバ演奏がありました

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第1743回 ウマキキャンプ「小豆島建築ミーティング」


 ウマキキャンプは、小豆島馬木にあります。それも私の実家横の敷地にあります。そこで私は生まれ育ちました。子どものころ、そこに小屋があって、ヤギ、にわとり、羊、ウサギ、鳩が住んでいました。
 ウマキキャンプは、瀬戸内国際芸術祭2013の作品です。大阪の建築家集団ドットアーキテクツによるセルフビルドの小さな木造の建築物です。
 その作品は、災害があっても作り直せばいいとの考え方のもと、簡易な構造の作り替え可能な建物です。瀬戸芸後は、地域の人が、食材を持ち寄って料理をつくって食べたり、健康づくりの体操をしたり、子どもたちが集まって遊んだり、地域の皆さんが、いろいろな利用ができる気楽な場所になっています。
 ウマキキャンプで、3年前の瀬戸芸の際、若手建築家が集まって、1回目の「小豆島建築ミーティング」が開かれました。次の年にも2回目のミーティングが開かれました。若手の建築家のトークは、専門外の私には、わからない議論もあって難しかったのですが、とても刺激的なものでした。
 これまで2回の建築家の皆さんのミーティングでは、私は、冒頭の簡単な挨拶をするくらいでしたが、3度目の今回のミーティングでは、私も、議論にどっぷりと巻き込まれました。
 私は、厚生労働省で社会保障の政策をつくる仕事をしていました。そのときから、社会政策と建築の近似性を感じていました。年金制度や介護保険制度をつくるとき、私たちは、いつも建物に例えて議論をしました。例えば、どんな年金をつくるか、二階建てか、三階建てか、出来あがった建物をイメージし、次に、この建物はどうしたら建つか、材料(財源)をどうするか、大工(マンパワー)はどうか、といった感じです。町長になってからの、地域づくりについても建築との近似性を感じています。
 今回の建築ミーティングでも、とても参考になり、刺激になる、意見をたくさんいただきました。そのすべてを紹介したいのですが、まずは、そのいくつかを紹介します。ひとつは、NPO法人のあり方についてです。ウマキキャンプのセルフビルドに取り組んだ向井君は、小豆島町の地域おこし協力隊員として、ウマキキャンプの管理運営に取り組み、今は、移住者と島をつなぐNPO法人Totieをたちあげ、「空き家」問題に取り組んでいます。
 そのNPO法人の取組みに期待しつつ、「NPOには、創造性、独創性、人臭さ、笑い、面白さが必要だ」との意見をいただきました。私もその通りだと思います。NPOは、行政にはできないこと、考えつかないこと、手や思いが届かないことにチャレンジしなければ、単なる行政の補完、代替に終わってしまうからです。「新しい公」を創りだし、実践することがNPOの本旨と思うからです。NPO法人Totieに、私は大いに期待しています。大胆な取組みが求められています。
 「空き家」対策について、示唆に富んだ意見がありました。つまり「空き家」対策は、「空き家」である建物を、点として、どう改修し、どう利用するかに留まらず、まちや地域をどうつくっていくかというテーマだということです。
 例えば、一人暮らしの高齢者を、まちとして、地域として、どう応援するかは、福祉のテーマとして考えられていますが、住まいのあり方でもあり、「空き家」対策です。つまり、今や、福祉と「空き家」対策に、垣根はなく、共通のテーマです。これを「地域マネージメント」と表現する人もいるそうですが、福祉医療の政策として最近提案されている「地域包括ケアシステム」も、まさに「地域マネージメント」のひとつだと気づきました。
 小豆島とアート・建築の出会いについて、身に余る意見をいただきました。瀬戸内国際芸術祭のアート、デザイン、建築が小豆島にどんな変化をもたらしているかについて、次のようなことを指摘していただきました。
 それは、普段は気づかない、見ない、まちや景色を、そこに住む人たちが瀬戸芸をきっかけに見るようになったことです。瀬戸芸のアート、デザイン、建築の作品は、小豆島のこれまでの「日常」にはないものであり、小豆島にとっては、「黒船」の来航でした。「小豆島の歴史的文化に、新しい文化がまざりあって、人の暮らし、風景が絵巻物のように流れだそうとしている」とおっしゃっていただきました。
 小豆島での仕事は、「戦う相手」がよくわかると言われた方もいました。「戦う」という意味を、そこに住む人、その建物を利用する人との、触れ合いのなかで、建築やまちづくりのビジョンを、どんどん変えながら一緒につくっていける、という意味だと私は受け止めました。
 参加された皆さんには、地域社会、人々の暮らしと建築はどうかかわっていくか、まちづくり・地域づくりと建築はどうかかわっていくか、政策の形成と建築はどうかかわっていくかという共通の問題意識があります。
 その意味では、ウマキキャンプは、そのことを考える格好の場になっています。ウマキキャンプは、いわば何でもない「地域の集会所」ですが、そこにとどまらない何かを目指しています。それが何か、うまく言えないのですが、小豆島では、今、「遊児老館」の取組みなど、何かが生まれようとして、もがいている最中のように思います。
 1回目のウマキキャンプでの「小豆島建築ミーティング」で、「アートは社会保障の問題を解決する」と具体策もなく私は言ったのですが、この日の議論を聞きながら、やっぱり、きっと、「アートは社会保障の問題を解決する」と改めて思いました。その実践をきちんとやり遂げなければと思いました。
 「小豆島建築ミーティング」は、最後に、ドットアーキテクツの家成さんが、宣言をして終わります。1回目の宣言は「建築は開いた」、2回目の宣言は「建築はウィンクした」、そして今回は、「建築は着地した」でした。
 次回のミーティングまでに、どう、飛び立つか、そして、見事に飛び立った小豆島の取組みを報告したいものだと思いました。(平成28年8月10日)

瀬戸内国際芸術祭2013で馬木地区に
建築されたウマキキャンプ

大阪の建築家集団ドットアーキテクツによる
セルフビルドで建築されました

ウマキキャンプで健康づくりの体操に
取り組む高齢者の方々

瀬戸芸後も地域の方々や観光客などの
交流の拠点として活用されています

若手建築家が集まり、3回目となる
「建築ミーティング」が開催されました

NPO法人Totieの事務局長を担い
空き家問題に取り組む向井達也君

NPO法人Totieが管理する
お試し移住体験施設

坂手地区にある遊児老館

建築ミーティングの最後に宣言を行う
ドットアーキテクツの家成さん

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第1742回 東京と小豆島の架け橋


 東京浜松町駅近くで新しいビルの地鎮祭がありました。新しいビルを建てるのは、小豆島土庄町の屋形崎出身の笠井寛さんです。
 笠井さんは、苦学の後、東京で建築事務所を立上げ、今では、浜松町駅周辺のたくさんのビルを設計管理する会社のオーナーをされています。そして、笠井さんは、東京にいて、ずっとふるさと小豆島のことを思い続けています。
 その笠井さんの夢のひとつが、東京のど真ん中に、東京・港区と小豆島をつなぐ、オリーブをはじめとする小豆島の名産、食など、小豆島の魅力を発信するショップ、レストランが入った自社ビルをつくることでした。
 笠井さんの夢の東京と小豆島の架け橋となるビルの完成は、来年の11月です。今から、どんなビルができ、どんなお店がオープンするか楽しみです。そこにいけば、東京にいながら小豆島を楽しむことができるはずです。

土庄町屋形崎出身の笠井寛さん

 東京は、私たちにとってどんな存在でしょうか。東京がふるさとという方もたくさんおられます。実は、地域らしさ、地域の個性という点では、浅草などの東京の下町は、訪ねる度に大したものだと感じます。
 問題は、地方としての東京の素晴らしさは横において、日本の中心、首都としての東京をどう考えるかです。その在り方は、日本全体の在り方にかかわります。
 上京の度に驚くことは、中心的な場所で新しい巨大がビルがどんどん建ち、街並みがどんどんきれいになっていることです。2020年には、東京オリンピック・パラリンピックもあります。東京は、世界の大都市として、ますます魅力を増しています。日本のけん引力なので、たのもしい限りです。
 一方で、少なからずの不安を感じるのは、東京が、これから、日本全体の社会の在り方を正しい方向にけん引していくことができるかどうかです。具体的には、東京で行われている政治と政府のあり方が大切です。
 私は、大学を出てからの30数年を東京の政治と政府の場で過ごしました。その30数年、東京の政治と政府は輝いていたように思います。したがって、私自身も、大変でしたが、とても充実した日々を送ることができました。
 

日本の中心、首都としての東京の在り方は
日本全体の在り方にかかわります

 今、世の中の何かが変わろとしている、変わらなければいけないのだと思います。例えると、振り子が一方に、振り切れて元に戻ろうとしています。山登りなら、山頂にたどり着いて、下山がはじまっています。
 巨大なビル建設のラッシュの一方で、保育所や高齢者福祉施設の不足が明らかなのに、政策は追いついていないように思います。地方の地盤沈下と同じくらい、あるいはそれ以上に、東京の抱える課題は深刻なので心配です。
 新しく東京都知事になられた小池百合子さんが、環境大臣をされたとき、私は環境省を離れていて、すれ違いですが、クール・ビズを実現するなど、政治家として優れた方です。兵庫県育ちの方なので、こどものころ、小豆島にも、神戸YMCAの一員として、夏に毎年のようにキャンプに来られています。世界のことも、地方のこともわかる、首都東京のリーダーとして活躍していただきたいと思います。
 地方が健全さを取り戻すことが、東京が元気になる上にも、日本全体が元気になるにも、必要です。地方には、まだまだ可能性がいっぱいあります。私は、小豆島で、小豆島が元気になる取組みを地道に続けていこうと思います。笠井さんの東京と小豆島の架け橋をつくる夢も応援したいと思います。(平成28年8月9日)

地方が健全さを取り戻すことが、
東京や日本全体が元気になる上にも必要です

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第1741回 小豆島土砂災害40年・防災訓練


 昭和49年、昭和51年と未曽有の豪雨が小豆島を襲いました。昭和49年災害では、29名の尊い人命と貴重な財産が失われました。二年後の昭和51年災害は、「天の底が破れた」かのような集中豪雨でした。
 わずか6日間に1400ミリを超える集中豪雨でした。1日当たりの降水量は790ミリでした。この雨量は、日本の観測史上4番目という集中豪雨でした。昭和51年災害では35名もの尊い人命が失われました。
 日本では、豪雨災害が絶えることなく発生しています。2年前の広島市での土砂災害の記憶も新しいのに、今年は、熊本地震の被災地に、土砂災害が追い打ちをかけてしまいました。
 集中豪雨や土砂災害は、地球の温暖化などにより、最近、増加し、激甚化している印象がありますが、小豆島災害のように、集中豪雨と土砂災害に、私たちは、ずっと向き合ってきました。これからもそうです。
 とりわけ小豆島は、その地質の特性から、集中豪雨があると、大きな土砂災害が起きる可能性があります。小豆島は、1400万年前の瀬戸内海の火山活動によって誕生しました。その後、1000万年の浸食により、寒霞渓をはじめとする大地が形成され、今の形になっています。人々は、豊かな自然環境を巧みに利用し、実に多様な文化、伝統、産業を築き上げ、今も大切に受け継がれています。一方、小豆島の基盤は、8000万年前にユーラシア大陸で形成された花崗岩で出来ています。花崗岩は、長期間の風化によって、一部はマサと呼ばれる砂や土となり、地滑り、山崩れ、土石流を引き起こしやすいものです。
 昭和49年と昭和51年の災害は、まさにそれでした。災害のあと、たくさんの砂防ダムが築かれ、幸いなことに、その後は、大きな災害は起きていません。しかし、災害は、必ず起きるものです。「自分の住んでいるところで災害は起きるはずがない」と思いがちですが、その「まさか」に、私たちは備えなければいけません。
 この日、ふるさと村グランドで、土庄町の消防団にも参加していただき、島をあげての防災訓練を行いました。香川県、県警、陸上自衛隊、海上保安庁、小豆島中央病院、日赤婦人部など、ほとんどすべての関係者約1000名が集まっての防災訓練でした。
 へリコプターでの人命救助の訓練、初めて見る県警の特別の救援チーム、毎年参加していただいている陸上自衛隊の皆さん、海からの海上保安署の救助艇など、そのひとつひとつが、本番がないことを祈りつつ、頼もしく見えました。市町村レベルで、これだけの関係者が集まって防災訓練ができているところは県下にはないと聞きました。ありがたいことです。
 災害がないことを祈ります。たとえあっても最小限度の被害にしなければいけません。消防団の皆さんをはじめ島の内外の知恵と力をひとつにしたいと思います。(平成28年8月8日)
小豆島土砂災害40周年行事・防災訓練


国土交通省水管理・国土保全局砂防部
砂防計画課長の栗原淳一さんの
講演が行われました

子どもたちに防災に関して興味を持って
もらえるよう「子供砂防広場」が設置されました

地域消防団による不明者捜索訓練

小豆島海上保安署による
海上漂流者の救助訓練

小豆島中央病院などの職員による
トリアージ、救命訓練

陸上自衛隊による
倒壊家屋からの救出訓練

香川県警広域救急援助隊による
埋没車輌からの救出訓練

小豆島消防署による
はしご車を用いた高所からの救出訓練

香川県防災航空隊による
ヘリコプターを用いた救出訓練

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第1740回 パトリック・ツァイさんの写真集「潜水球」


 パトリック・ツァイさんは、台湾系アメリカ人の青年です。パトリックさんは写真家です。パトリックさんが、小豆島に初めてやってきたのは、2年前のことでした。
 瀬戸内国際芸術祭2013が終わった次の年、瀬戸芸の火が消えないようにと思い、「アート小豆島・豊島2014」という取組みをしました。そのとき、パトリックさんは、大阪のクリエイティブ集団のgrafとともに小豆島で活動してくれました。
 初めて会った台湾系アメリカ人の青年は、私たちが忘れようとしている懐かしい日本人の少年のように私は感じました。彼の撮った、澄み切った写真と詩のような文章に、心を揺さぶられ ました。
 パトリックさんは、小豆島に移り住むことを決めてくれました。「潜水球-BARNACLE ISLAND」は、パトリックさんが小豆島に移り住んで約1年間に撮影した写真をまとめたフォトダイアリーです。
 写真は、すべて小豆島の日常の風景と人々の表情を撮ったものです。何でもない、ありふれた光景ばかりですが、温かさ、懐かしさ、優しさがあふれんばかりに詰まった、こころがほっとさせられる写真集です。
 パトリックさんは、小豆島町の地域おこし協力隊員です。写真家が写真家としての仕事をするのに、どうしてそれが地域おこし協力隊員と思う人がいるかもしれません。私は、パトリックさんの撮る写真を、島に暮らす人にも、島の外の人にも見てもらうことで、小豆島の魅力と可能 性を、それは小豆島に限らず、世界中のすべての地域にも言えることですが、感じとってほしいと思います。そのことが、地域が、地域の本来の魅力と可能性を知り、地域の人たちの知恵と力で元気になっていく出発点になると思っています。だから、パトリックさんは、地域おこし協力隊員なのです。
 実際のパトリックさんは、写真家の仕事だけでなく、島のお年寄りや小学生などに英会話教室もしてくれているし、小豆島観光協会の国際化に向けた取り組みのお手伝いもしてもらっています。先日は、小豆島高校の光画部の皆さんへのワークショップをしてくれるなど、大活躍をしています。
 パトリックさんは、地域おこし協力隊員として、昨年も一冊の写真集を発表しています。「あるしまに」という写真集です。あるしまのひとりの女の子の成長を写真にして追いかけたものです。英語名は「the island」です。その写真集の最後の言葉が私は好きです。
 「かのじょも、おとうさんやおじいさんとおなじように、そのしまがちょうどいいんだってことにやがてきづくでしょう the island would be just right.」パトリックさんには、少年のような感性を持ち続けて、小豆島を舞台に、世界に飛躍して、活躍してほしいと思います。(平成28年8月5日)

(参考) パトリック・ツァイ写真展
 2016年7月23日(土)~9月4日(日)
 草壁メイン会場 Blue Sheets Laboratory(旧JA草壁)
 坂手会場 ei 1F(旧JA坂手)
 豊島会場 ドンドロ浜商店  
 写真集「潜水球-BARNACLE ISLAND」のカバーデザインは、小豆島 に移住している日本を代表する装丁家の平野甲賀さん、イラストレーションは、瀬戸 芸2016の参加アーティストの村上慧さんが手がけています。発売元は「その船に 乗って」(代表平野公子さん)です。定価1400円+税

パトリック・ツァイさんの写真集
「潜水球」

パトリックさんは、「アート小豆島・豊島2014」で
大阪のクリエイティブ集団のgrafとともに
小豆島で写真を撮るなどの活動をしました

現在、Blue Sheets Laboratory(旧JA草壁) で
写真展が行われています

島のお年寄りや小学生などに
英会話教室を行っています

小豆島高校光画部の皆さんとの
ワークショップのようす

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第1739回 岬の分教場文芸教室/壺井栄と庚申の夜「本からうまれる一皿」


 この日も暑い夏の日でした。壺井栄に関連した行事が二つありました。どちらの行事からも、栄という人が小豆島から生まれ、育った意味を深く感じました。
 岬の分教場では、24回目の文芸教室が開かれました。岬の分教場は、栄の名作「二十四の瞳」の舞台であり、私にとっては、母が学んだ教室という、大切な場所です。
 木造の築100年以上の当時のままの教室です。もちろん冷房はありません。この教室に、小学生から80歳近くの高齢者まで、さまざまな年代の40名近くの生徒の皆さんが集まってくれました。
 授業は、スケッチ作文、ハンカチのベンガラ泥染め、栄作品朗読など盛りだくさんでした。今回の授業の圧巻は、栄を、子どものころから知る、栄の生地の坂手地区に住む久留島正巳さんと壺井栄文学館長の谷岡稔さんとの対談でした。
 久留島さんの一家の皆さんと栄は、近所に住んでいたことや、栄が勤めていた郵便局の上司であったことなどから、お風呂を使わせてもらったり、食事を食べさせてもらったりと、家族同様の関係であったそうです。栄の実家は、醤油樽をつくっていましたが、事業で失敗し、大変な貧乏暮らしでした。そのため、栄は、教師になる夢を断念し、地元の郵便局に勤めました。
 上京し、結婚した同郷の壺井繁治は、政治犯として特別高等警察から追われる身でした。ふるさとに戻った二人を見つめる地元の人々は冷たく、誰もが二人と関わりことを避けました。
 久留島さんの一家だけは例外でした、二人をあたたかく見守り、特高から逃れるため、繁治の書籍を屋根裏で預かってあげたりしました。そのことは、久留島さんの一家も逮捕されるかもしれない危険なことでしたが、一家はそのことをおそれませんでした。
 戦後、栄は「二十四の瞳」を発表し、日本を代表する作家になると、島の人は手のひらを返したように、栄とのつきあいを自慢し、称えるようになりましたが、そのことで栄が島の人をうらむようなことはありませんでした。栄は、ずっと久留島さんの成長を見守り、気にかけてくれたそうです。久留島さんは、二人のことを「おじさん」「おばさん」と今も呼んでいます。
 この日、「本から生まれる一皿 壺井栄と庚申の夜」も開かれました。栄の作品読書会と苗羽地区の婦人会のメンバーなどが、栄の作品に出てくる小豆島の食べ物を、小豆島の食材を使って、一皿の料理に、毎月1回、最終土曜日に再現しています。
 7月のテーマは、「海・夏 志度市/夏祭り」でした。料理のメニューに書かれていました。 「静かな小豆島の海にもさまざまな物語がある」(『ふるさとの海』より)
 海のある風景、漁の思い出、海を行き交う船、出会いと別れのある海・・・壺井栄が小説や随筆に描いたふるさと小豆島の海。たくさんの物語が海をめぐって展開します。そんな物語と、夏の小豆島の伝統行事からメニューをつくりました。
 本からうまれる一皿月報「ヒトサラ通信」7月号によると、栄は「海のたましひ」という作品の序文で、地方ごとに独特な“魂”があると書いています。さまざまな地方の暮らし、職業が育む魂がある中で、栄自身も持つ“海の魂”こそ、海に囲まれた日本全体に通じる魂であり、大切に守り育ててゆかねばならないと書いています。
  これを読むと、なぜ栄という人が小豆島に生まれ、育ち、作品を通して、何を私たちに伝えたかったかがわかるような気がします。瀬戸内国際芸術祭の目指すものが「海の復権」にある意味もわかるような気がします。そして「なぜ小豆島は元気にならなければいけないのか、きっと元気になれるだろう」と私は思うのです。(平成28年8月4日)

田浦の岬の分教場で
第24回岬の分教場文芸教室が行われました

小学生から80歳近くまで、さまざまな年代の
生徒の皆さんが集まりました

壺井栄を子どものころから知る久留島さんと
壺井栄文学館長の谷岡稔さんとの
対談が行われました

小学生はハンカチのベンガラ泥染めをした後
体験したことを作文にしました

今月も坂手地区「ei」で「本から生まれる一皿 
壺井栄と庚申の夜」が開催されました

栄の「海のたましひ」という作品を通して
瀬戸芸の目指すものが「海の復権」に
ある意味もわかるような気がします

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第1738回 姉妹都市南島原市にて


 南島原市と小豆島町は姉妹都市です。江戸時代、島原の乱のあと、島原半島に農民がいなくなったので、江戸幕府は天領であった小豆島の農民の次男、三男などに島原半島への移住を命じました。
 島原半島に移住した小豆島の皆さんは、ふるさとの素麺づくりを始めたり、復興に貢献し、今も末裔の皆さんが南島原市でたくさん活躍されています。その縁で、南島原市と小豆島町は姉妹都市です。
 南島原市には何度か訪れていますが、今回の訪問は久しぶりです。特に、2年前に市長になられた松本市長が2度も小豆島に来ていただいているのに、私は伺えずにいたので、今回の香川県国保地域医療推進協議会の研修旅行の一行が移動の途中、この地を通ったのはラッキーでした。島原半島は、来るたびごとにいろいろなことを考えさせられます。
 島原の乱は、キリスト教の弾圧にキリシタンたちが抵抗した歴史とされています。しかし、小豆島の壺井久子さん宅で発見された矢文は、それを否定するものです。この矢文は、原城に立てこもる天草四郎を首領とする側から、沖合から攻撃する幕府軍に向けて矢で放たれた文書です。
 その文書に、自分たちは領主の厳しい年貢の取り立てと弾圧に抗議して蜂起したのだと書かれています。それが事実だとすれば、島原の乱を、キリスト教弾圧のキリシタンの抵抗としたのは、失政では幕府の沽券にかかわると考えた江戸幕府の意図となります。歴史は、勝者の史観によってつくられがちです。
 ところで、なぜ矢文が小豆島から発見されたかと言えば、当時天領であった小豆島から幕府軍の水兵が徴用され、その水兵がひそかに小豆島へ持ち帰ったのだとされています。
 南島原市では、今、数年後に実現されるであろう、原城跡をはじめとするキリスト教関連遺産の世界遺産登録の準備が進んでいます。壺井家のこの矢文の複製は、歴史記念館にこの年末にも展示されることになっています。複製は、松本南島原市長が二度の来島の際に、壺井さんを訪ね、矢文の複製を壺井さんにお願いされ、実現しました。
 島原半島の農民を攻撃したもののなかに小豆島の水兵がおり、農民がいなくなった島原半島に送り込まれたのも、また小豆島の農民たちでした。移住者のなかに小豆島中山からの移住した八木家があります。今回も八木家を訪ねました。今は10代目当主が八木家を守っています。
 八木家があるのは、棚田もある、ふるさと中山によくと似た中山間地です。八木家が島原半島に来たのは、島原の乱から30年ほど経ったころです。このころには島原半島もかなりの復興をしていたはずです。八木家は、日本のキリスト教の聖地である島原半島を再生するために、隠れキリシタンとして移住したと伝えられています。
 八木家は、庄屋としての趣きのある堂々たる建物でしたが、数年前に痛みがひどく取り壊されました。新築になった家の物置の扉に十文字が刻まれていました。ふるさとの中山にも、ハートのかたちをした水鉢など、隠れキリシタンの遺物がたくさん残されています。小豆島と島原半島は、いろいろな糸でつながっています。「絆」という字は、糸に半分と書きます。半分ずつ差し出した糸が結び合ってきずなになるという意味だそうです。小豆島と島原半島の「絆」を大切にしたいと思います。
 島原市役所の宮崎総務部長さんは、原城のすぐそばで育ったそうです。当時は、まだ世界遺産を目指す動きはなかったので、原城跡地は恰好の遊び場だったそうです。しかし、夜になると、理由はわかりませんが、火の玉がたまに見られ、原城跡地は、近寄るのが怖い場所でもあったそうです。400年ほど前3万7千人もの命がここで失われています。
 原城跡から海をながめました。天草四郎をはじめ抵抗の農民たちは、どんな気持ちで、この美しい海をながめていたのでしょうか、移住してきた小豆島の農民たちは、どんな気持ちでこの静かな海をながめたのでしょうか。この海は、小豆島にもつながっています。南島原市との「絆」をこれからも大切にしていきたいと思います。 (平成28年8月3日)

島原半島に移住した小豆島の皆さん末裔が
南島原市でたくさん活躍されています

南島原市のスタッフに
原城跡を案内していただきました

有馬キリシタン遺産記念館

壺井久子さん宅で発見された矢文

中山から移住した八木家を訪ねました

天草四郎像

原城跡からの海の眺め

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第1737回 九州に行ってきました


 久しぶりに九州に行ってきました。熊本と長崎です。
 国民健康保険は、市町村が自営業の人などを対象に運営する医療保険制度ですが、病院や診療所を直接運営することがあります。
 実は、国民健康保険は、単なる医療保険だけでなく、地域住民の健康を守る総合的な医療・保健・福祉の制度です。国保を創設立案した先達は、相当な知恵者であり、地域社会がどうあるべきかの優れた洞察者であったと私は思います。
 その国民健康保険が、財政赤字に苦しみ、保険料が増高するなど、いろいろな課題をかかえて、県単位の運営にする広域化が検討されています。一方、医療・保健・福祉の政策として、「地域包括ケアシステム」をつくることが課題とされています。
 また、全国のほとんどの市町村が、人口減少、少子高齢化が急速に進み、「地方創生」が課題とされています。
 以上のことは、それぞれ別のこととして論じられがちですが、実は、同じか、つながった課題です。それは、今、地域社会が危機を迎えているということです。
 

国民健康保険は、単なる医療保険だけでなく、
地域住民の健康を守る総合的な医療・保健・福祉の制度です

 香川県には、国保を運営する市町の首長と病院・診療所の院長先生らが一緒に勉強、研究する場があります。香川県国保地域医療推進協議会がそれです。今回の九州訪問は、その会の県外現地研修会でした。訪問したのは、天草のある市立の総合病院です。その市は、島しょ部にあり、人口も3万人弱なので、小豆島に似た環境です。病院の規模も小豆島中央病院とほぼ同じくらいです。医師、看護師の確保が難しく、地域包括ケアに取り組むなど、抱える課題もながら共通しています。その病院の院長先生などの話は参考になりました。
 しかし、私の正直な印象を言えば、この市からは、急速な人口減少などに立ち向かうビジョンのようなものを感じることができませんでした。おそらくは、全国の多くの地方自治体も、折 角の地域資源を活かしきれないで、茫然と立ちつくしています。自治体のトップの明確なビジョンがあって初めて、医療福祉関係者の努力も活かされるのだと思います。

島しょ部にあり、人口も3万人弱の天草市にある
小豆島中央病院と同規模の市立の総合病院を視察しました

 地味ですが、私は、香川県の国保関係者が、行政トップと医療トップの勉強会、研究会を長く続けている意義は小さくないと思います。私自身、これまでこの勉強会、研究会にあまり積極的にかかわってこなかったのですが、今回の視察を契機に態度を改めたいと思います。
 天草を訪ねるのは、中学生のときの修学旅行以来です。とても美しいところでした。瀬戸内海の多島美とは、また少し違った多島美でした。ところどころにオリーブの木も見ることができました。
 天草から島原半島に渡りました。フェリーボートの着いた口之津という港は南島原市に属します。口之津は、日本で最初の南蛮船が入港した港です。南島原市は小豆島町の姉妹都市です。(続く)(平成28年8月2日)

南島原市は小豆島町の姉妹都市にあたります

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第1736回 「坂手物見台」


 小豆島は海に囲まれています。だから僕はずっと海を見て育ちました。僕がいつも見ていた海は内海湾です。
 沖合に弁天島があります。まるで湖のよう静かな海です。夜になると月の光りが海面に写しだされます。きれいな海です。
 子どものころ、この湾を、たくさんの醤油船という丸みを帯びたかたちの木造船が行き交っていました。出来あがった醤油を京阪神に運ぶ船です。醤油会社で工員をしていた父親が夕方に帰ってくると、自転車の後ろに乗せてもらい、波止場に醤油船を見に連れていってもらいました。
 僕は、波止場で醤油船を見るのが好きでした。あの船の向かう先に何があるのだろう。いつかその先に行ってみたいと思いました。
 海に囲まれて育ったのに、僕は海が苦手です。兄たちのように、釣りも得意でなく、臆病な僕は水泳も苦手です。高校生のとき体育の授業でプールでの水泳がありました。ほとんど金づちなのに、思い切ってプールに飛び込みました。死にもの狂いでなんとか25メールを泳ぎ切りました。やったというより、恥ずかしさでいっぱいでした。
 生命は海から誕生しました。20万年前アフリカで誕生した人類は、3万年前に、海を渡って日本列島にたどりつきました。僕の好きだった内海湾の海は、世界中につながっています。
 小豆島の先達たちは「海人」です。海を知り、船を操る技術を持ち、何より進取の気概がありました。日本中だけでなく、朝鮮半島や中国にも、台湾の方にも渡ったはずです。先達たちは、江戸時代に、何十トンもの巨石を山から切り出し、船で大阪まで運び、大坂城の石垣としました。
 今の科学技術をしても、どうして江戸時代にそれができたのかわかりません。同じころ、特産の塩を活用して醤油づくりをはじめました。杉樽の醤油づくりは今も続いています。
 海はこわい存在でもあります。台風の豪雨や高潮は小豆島も容赦なく襲います。僕の実家は、土地が低いところにあるので、何度か床上浸水したことがあります。僕は、子どものころの写真や卒業アルバムを持っていません。昭和49年と51年の災害で、水につかり、それらのすべてを失ってしまいました。
 瀬戸内国際芸術祭のテーマは「海の復権」です。私たちが忘れようとしている海の大切さと価値、可能性について、アーティストの皆さんが気付かせてくれます。
 今年の夏会期の芸術祭の坂手のCreator in Residence「ei」で、dot architectsとUMA/design farmとMUESUMが「坂手物見台」という作品展示をしています。
 港町の坂手のまちを上がっていくと、ビートたけしさんとヤノベケンジさんの「Anger from the Bottom」という作品があります。その先をちょっと登ると、今はもう何も作っていない畑と小屋があります。
 僕のいとこの、今は大阪府高槻市に住む「まーちゃん」が何かに使ってほしいと町に寄付してくれました。僕よりちょっと年上で僕の兄貴分の「まーちゃん」は、ある時、「坂手の丘から見る坂手の海の景色が世界で一番だ」と僕に教えてくれました。僕もそう思います。
 「まーちゃん」が寄付してくれたその場所に、坂手のまちと海をゆっくりと眺めるための小道をアーティストの皆さんが、地元坂手の人の協力を得て、手造りしてくれました。小屋の一つの部屋では、どこかから坂手に流れついた漂流物から生まれた小さな船があり、そこでは海にまつわる物語の数々を聞くことができます。もうひとつの真っ暗の部屋では、小さな穴から入った光で、カメラの中と同じ原理で、暗闇に目が慣れると、反転した外の景色、坂手の海、家、沖を通る船が壁に見えてきます。
 僕は海が好きです。でもこわい。環境省(庁)につとめていたころ、瀬戸内海の海の水をきれいにする仕事をしました。僕は一生懸命でした。瀬戸内海の海の水はきれいになりました。でも、海の水がきれいになったのに、魚も貝も随分とれなくなりました。どうしてだろうと思います。僕は海のことを知っているようで何も知りません。僕はもっと海のことを知りたいと思います。僕はもっと海のことを大切にしたいと思います。海が、こわいけど、好きだからです。(平成28年8月1日)

内海湾の沖合に浮かぶ弁天島

子どものころには内海湾を
たくさんの醤油船が行き交っていました

江戸時代、小豆島の先達たちは、巨石を
山から切り出し、船で大阪まで運びました

江戸時代頃から始まった
杉樽の醤油づくりは今も続いています

ビートたけしさんとヤノベケンジさんの
共同作品「Anger from the Bottom」

坂手の小高い丘の上に
「坂手物見台」が完成しました

まーちゃんから教えてもらった
坂手の丘から見る海の景色
(写真:UMA/design farm)

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