小豆島町長の「八日目の蝉」記 

 私は小豆島に生まれ育ちました。18歳のときこの島を離れ、40年ぶりに島に帰ってきました。島に帰ってから新しい発見の日々です。この島には、今私たちが失いつつあり、探し求めている何か、宝物がいっぱいあります。
 平成22年の3月と4月に、NHKが「八日目の蝉」というドラマを放映しました。小豆島が舞台のドラマです。その後、映画化され、平成23年4月29日に全国ロードショーされました。蝉の地上での命は普通7日です。ですから、8日目の蝉は、普通の蝉が見ることができないものを見ることができます。作者の角田光代さんは、原作で、小豆島のことを「海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」と表現しています。そして、主人公である若い女性に、おなかの中の子に、この景色を見せる義務が私にはあると、語らせています。
 そこで、私は小豆島の「きれいなものぜんぶ入った、広くて、大きな景色」を、これから町長の日々の仕事を通して訪ねてみようと思います。

第1822回 番外編アーカイブ③「東京からふるさと苗羽に」<続>


 大学を卒業して厚生省に入りました。東京は、高校の修学旅行と早稲田大学受験の時に来たことがあるだけで、田舎っぺが都会に来たという感じで、自信は余りありませんでした。北九州市に出向した3年間を除いて、あれからずっと東京に住んでいることになります。都会人としてはなかなか洗練されませんが、東京にいる多くの人も地方出身だし、故郷のあることは、いろいろな意味で支えでもあるし、仕事を進める上での発想や自己アピールの上で強みですらあります。
 厚生省では、これまで福祉、医療、環境、年金など、さまざまな仕事をしてきました。明確な目的意識もなく、ただ中央省庁に入りたいと思って入省したにすぎないのですが、高齢社会の到来を控えて、厚生省の存在価値が高まるなか、選択が正しかったことを嬉しく思います。これまで、それぞれのセクションにおいて、自分なりの仕事をすることができたと思いますし、これからも自分の能力を活かした仕事をしていきたいと思っています。

厚生省の分野の仕事をできたことが
本当によかったと思っています

 今年の10月、香川県で「ねんりんピック」が開催され、内海町では、三世代交流マラソンが開催されました。開催の時点で担当を離れていましたが、しばらく「ねんりんピック」の仕事をしていました。高齢化はどんどん進んでいますし、苗羽もその例外ではありません。母を郷里に残して、東京でいくら格好いいことを言ったところで、現実の高齢化のさまざまな問題を解決する力をもっていません。故郷にいる方々に、全国どこに行っても負けない、苗羽の福祉のまちづくりをお願いするしかありません。
 三世代交流マラソンは、全国各地から選手が集まり、抜けるような秋晴れの下で、行われました。その模様が全国に向けてニュースで紹介されました。故郷の便りほど、故郷を離れている者を勇気づけるものはありません。故郷、苗羽を心に想いながら、東京の地で、頑張っている今日この頃です。(「苗羽の今昔」平成7年)


東京にいても、いつもふるさとのことを思って
仕事をしていました

  (注釈)
 ふるさとの苗羽地区が郷土史「苗羽の今昔」を編纂することになり、頼まれ書いたエッセイです。はじめて本省の課長になった年です。42歳でした。
 本省では、課長という名のポストについてから、官僚としての本当の仕事が始まります。なぜなら、その分野について、日本のなかのたった一人の責任者で、責任は重く、その分野が、よくなるかも悪くなるかも、課長の働きぶりにかかっているからです。
 生活衛生局の指導課長というポストでした。理容店、美容店、クリーニング、公衆浴場、飲食、旅館、お寿司屋、映画館など生活に密着したお店を応援する仕事でした。このポストの仕事は、民間で活躍する皆さんと直接現場で会ってお話しを聞き、皆さんの課題を、ひとつひとつ、政治家の皆さんの知恵と力を借りて解決していくことでした。この2年間の経験が、町長になっていく原点にもなりました。
 苗羽で育ったことが、小豆島と言いかえてもいいのですが、僕の人生の支えと誇りになっています。東京にいても、いつもふるさとのことを思って仕事をしていました。ただ、何となく、というより、成績からして厚生省を選ぶしかなかった、その当時、厚生省はまだ重要な省庁として位置づけられてなく、私の成績でも入れたのです。厚生省の分野の仕事をできたことが、本当によかったと思います。
 これから、このアーカイブで、書いたものを順次紹介していきますが、この「苗羽の今昔」の繰り返しばかりの文章です。それほどに、ふるさと小豆島と、名もない庶民に過ぎなかった父と母の影響を受けていきたのだと思います。(平成28年12月7日)

「苗羽の今昔」エッセイ
(クリックすると詳細が表示されます)

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第1821回 番外編アーカイブ②「東京からふるさと苗羽へ」


 ふるさとを離れて25年になります。苗羽には高校を出るまで住んでいましたから、もう外の生活の方が長くなりました。しかし、どんなに長くなっても、苗羽をちょっと離れて東京に来ているだけというのが実感です。
 高校を卒業して、故郷を離れる時は、期待に胸が踊るというよりも不安な気持ちでした。というのも希望した大学受験に失敗し、浪人生活が始まるからでした。幸い、京都に住んでいた兄のところに居候させてもらうこととなり、兄の存在が浪人時代の支えとなりました。今から考えると、浪人生を手元に置いて、兄はよく辛抱したものだと思います。頭の上がらないことです。
 次の年、希望の京都大学に入学することができました。父と母は何度も神社にいって合格祈願をしてくれていたそうです。息子が京都大学に合格したことは、父や母にとって、大きな喜びだったに違いありません。父と母は、尋常小学校しか出ていませんし、私の子供のころの状況からみて、夢のようなことだったと思います。素直な気持ちで大きな親孝行であったと思います。
 父は、苗羽で生まれ、苗羽で育ち、苗羽しか知らずに、人生を終えたと思います。小さな世界で、自分の好きなように、わがままに生きたわけです。多くの人に迷惑をかけたこともあったでしょうが、自分ではそのことを気付かないまま、この世を去っていきました。そのことは、父にとっては幸福であったでしょう。
 父が最も迷惑をかけたのは母に対してであろうと思います。母は、田浦の子沢山の漁師の家の長女として生まれました。母は、若くして、結婚歴のあった年の離れた父のところに嫁ぐことになりました。比較的旧い家でもありましたから、辛いことが何度もあったにかたくありません。父の不用意な言動が母を傷つけたこともあったでしょう。そんな父を母は恨むでもなく、今も大切に思っているようです。母のその思いは私の思いでもあります。
 私にとっての苗羽の原風景は、醤油船の波止場です。子供の時、醤油船が出入りするのを見ることが好きでした。丸金の勤めを終えた父に自転車の後ろに乗せてもらい、「馬木ばと」や「安田ばと」に、よく連れていってもらったことを覚えています。
 苗羽という小さな地域しか、まだ知らなかった私が、木造の古びた丸みを帯びた醤油船にどんな思いを寄せていたのでしょう。帰省した時には、時々、波止場に行きますが、もう醤油船を見ることはできなくなりました。モータリゼーションの変化からトラック輸送が主力になったのでしょうが、淋しい気もします。
 苗羽は、何といっても醤油の街です。かつては何十もの醤油屋さんがありましたが、今はその数は随分減ったのでしょうか。醤油屋さんは、映画「二十四の瞳」にも登場しています。この映画には、苗羽の方々が沢山出演していますが、私の祖母も「ことえ」の祖母役で出演しています。祖母が丸金のそばの道を「ことえ」を探して歩く場面があります。
 祖母はもう亡くなっていて確認する術がな いのですが、その場面で祖母は赤ん坊を背負っています。この赤ん坊は誰なのでしょうか。ビデオを見ながら、年齢や頭の格好から、もしかしたら私ではと思ったりするのですが、もしそうなら私も、歴史に残る映画に出演していたことになります。今は醤油に代わり、佃煮が栄えてきたようですが、地道な産業だけに息長く続いていってほしいと思います。(続く)(「苗羽の今昔」平成7年)(平成28年12月6日)

真光寺にある楠とシンパク

田浦の街並み

子どものころには内海湾を
たくさんの醤油船が行き交っていました

木桶を使った醤油づくり

平成7年に編纂された
「苗羽の今昔」

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第1820回 小豆島高校閉校式あいさつ


 小豆島高校の97年の歴史に、小豆島町長として、また、ひとりの卒業生として感謝します。
 小豆島町長としての感謝の気持ちを申し上げます。何よりも、小豆島高校は、広い分野の素晴らしい人材を輩出、育てていきだきました。卒業生の数は1万7千人を超え、小高で学んださまざまな人材が島の内外で活躍しています。
 二番目に、小豆島高校は、小豆島の地域社会の団結と絆の象徴でした。小高は、「島はひとつ」の象徴でした。
 三番目に、今年の小豆島高校野球部の甲子園出場の感激を忘れることができません。島がひとつになって、選手の皆さんの活躍を応援しました。また、陸上部の男女アベック駅伝全国大会出場も嬉しいニュースです。年末、都大路で声をからして小高最後の応援をします。
 卒業生の一人として感謝の言葉を申しあげます。
 入学式での湯川明夫校長先生の「君たちは、島の最高学府に入ったという誇りをもって勉学に励むように」という訓示が昨日のことのようです。
 立派な先生方と先輩がいました。私は、ある先生にあこがれ、先輩に負けないようにと、勉強に励むことができました。その結果、先生と同じ大学に入ることができました。私が今あるのも、先生と先輩、友人のおかげです。
 東京で、霞が関で仕事をしているとき、いつも「君は、高松高校卒業か」と聞かれました。「小豆島高校です」と、誇らし気に答えるのが楽しみでした。「小豆島」や「小豆島高校」には魅力と魔力があります。
 「二十四の瞳」に出てくる岬の分教場のような学校を、きっとみなさん、思い浮かべるのだと思います。小豆島高校の卒業生であることが、私を助け、私の力になりました。小豆島高校あり がとうございます。
 小豆島高校は97年の歴史を終えます。しかし、その歴史は、小豆島中央高校に引き継がれます。新しい歴史が始まります。歴史は、断絶するのでなく、連続します。小豆島高校魂は、小豆島中央高校に受け継がれます。
 大学時代によく、ドイツ語の「アウフヘーベン」という言葉を聞きました。私の好きな言葉です。日本語では「止揚」です。日本語でも難しいかもしれない言葉ですが、「課題、困難を克服し、より良きもの、より高い次元のものになる」ことです。
 小豆島中央高校の誕生は、まさに、小豆島高校の「アウフヘーベン」「止揚」を意味します。小豆島中央高校が、小豆島の新しい魅力と可能性を創りだしてくれるはずです。
 小豆島高校の跡地は、小豆島町と小豆島の総合的な教育、文化、スポーツの拠点として活用したいと小豆島町では考えています。この地でも小豆島高校魂は生き続けます。小豆島中央高校の未來に大いに期待したいと思います。小豆島高校ありがとうございました。(平成28年12月5日)

小豆島高校の卒業生で組織される錦楓会が
主催する閉校記念式典が行われました

式典には島内外から
多くの卒業生が集まりました

小豆島高校閉校記念式典のようす

校歌斉唱では、卒業生の皆さんが
思いを込めて歌われていました

式典後には、小豆島高校の卒業生で
ソプラノ歌手の高橋薫子さんの
リサイタルが行われました

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第1819回 小豆島高校陸上部男女アベック全国大会出場


 今年は、小豆島の若者たちが、大活躍してくれました。3月には、小豆島高校野球部が春の全国選抜高校野球大会に初出場する快挙を成し遂げてくれました。そして、今度は、小豆島高校陸上部が、男女アベックで、この25日、京都で開催される全国高校駅伝大会に出場することになりました。
 この日、選手の皆さんが表敬訪問してくれました。男子は、県外ランナーもいる強豪尽誠学園を破っての待望の初出場です。女子は、苦戦が予想されるなかで、見事に県大会で優勝しました。女子は、5回目の全国大会出場です。男女そろっての全国大会出場は、香川県で初めてという快挙です。
 選手の皆さんの頑張りと努力の賜物ですが、荒川監督という名伯楽の存在も大きいと思います。また、中村監督をはじめ中学校の先生方の指導も大きいと思います。
 小高野球部の甲子園出場も、小豆島で学童野球が盛んに行われているという裾野があって達成できたことです。陸上部の男女アベック全国大会出場も、今年で57回目を迎える、小豆島中の地域チーム34チームが参加する小豆島駅伝競走大会という裾野の上で達成できたことです。
 今年度で97年の歴史を小豆島高校は閉じます。その記念すべき年に、野球部と陸上部の面々が偉業を達成してくれたことを心から感謝します。小豆島高校は歴史を終えるのではなく、新しい小豆島中央高校に引き継がれます。どんな歴史が新しい高校で刻まれるか今から楽しみです。
 ところで、先日、小豆島中学校の3年生に講話する機会がありました。私にとって、小豆島の家から一番近い、小学校、中学校、高校に通い、学んだことが、私の人生の支えと誇りになったことを話しました。新しい高校の歴史の第一歩を踏み出すのは皆さんと、私の期待と思いを話しました。
 未来を担うのはこどもたちです。残念ながら、私は、これから30年後、50年後の小豆島がどうなっているかを、自分の目で見ることができません。小豆島の未来はこどもたちの手にかかっています。
 人という字でわかるように、人は一人では生きていけません。助け合い、支え合いながら、生きていかねばなりません。野球も、駅伝も、チームプレイです。一人、一人の力と、みんなの力があわさることが必要です。年末の都大路、陸上部のみんなには、全力を尽くして、タスキをつないでほしいと思います。私も都大路で、声をからして、小豆島高校最後の応援をしたいと思います。(平成28年12月2日)

念願の初優勝を果たした
小豆島高校陸上部男子チーム

2年連続5度目の優勝を果たした
小豆島高校陸上部女子チーム

小豆島駅伝競走大会
今年は12月4日(日)に開催されます

小豆島中学校の3年生に
講話をさせていただきました

小豆島高校陸上部から
全国大会出場の報告と抱負をいただきました

年末の都大路では声をからして
小豆島高校最後の応援をしたいと思います

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第1818回 オリーブ公園がモデル「道の駅」になりました


 全国に1000を超える「道の駅」があります。「道の駅」とは、国土交通省が登録した駐車場・休憩施設・地域振興施設が一体となった道路施設のことです。
 小豆島町でも、オリーブ公園と小豆島ふるさと村が認定されています。全国の「道の駅」と同様に、ふたつの「道の駅」は、小豆島の観光施設の中核として、賑わっています。
 「道の駅」について、厚生労働省と環境省で仕事を長くしていた私は、「道の駅」とは、うまいネーミングを考えたものだと感心していましたが、正直なところ、それ以上の問題意識を持っていませんでした。
 国土交通省四国整備局から、オリーブ公園を、全国の「道の駅」のモデルとして、四国ブロックのただ一つの候補として、手を上げてくれないかと頼まれたとき、どういうこととぴんときませんでした。
 よく聞くと、全国の「道の駅」が、どうも本来の趣旨から離れて、地域の特産物売り場のような位置づけになっており、地域の住民の日常の暮らしをよくすることに貢献するという本来の趣旨からずれはじめている、これでは、民間のパーキングエリアと変わらないのではないかという問題意識でした。オリーブ公園は、売店収益を活かして、住民の健康福祉づくりに取り組んでいるので、これからの「道の駅」の在り方の全国のモデルになるというのです。
 私は、この話を聞いて、目から鱗が落ちました。オリーブ公園にとって、赤字のサン・オリーブは金くい虫で、オリーブ公園のお荷物になっていると思っていたからです。サン・オリーブがあることが、オリーブ公園の魅力を高め、サン・オリーブを住民の健康づくりに活かしている今のかたちこそが、「道の駅」としての本来のかたちであり、これをどう充実していくかが私の使命だと気がつかされました。
 もともと、サン・オリーブは、香川県が、高齢者の健康いきがいづくりの中核施設として整備したものです。温泉入浴施設だけでなく、さまざまなイベントができるホール、会議室、多目的の和室、健康運動ルームなど、高齢者の健康いきがいづくりの多機能の施設として建設され、小豆島町に譲渡されたものです。
 その目的は、いいことですが、高齢者の地域活動を前提にしているので、本格的な音楽、演劇、講演などを行うには、ちょっと中途半端であったり、経済的な採算性もあまり考慮されておらず、どのようにこのホールを活かしていくかが議論になっていました。
 したがって、サン・オリーブはいい施設ではあるのですが、どう活かしていくか、悩んでいるばかりでした。その意味で、国土交通省から、オリーブ公園が、住民サービスに貢献する、これからの「道の駅」の全国モデルに認証されたのは、「厚生労働省出身で、オリーブを用いた健康長寿づくりを進めている町長さん。もっと頑張りなさい」と、喝を入れられたのです。
 この日、国土交通省の大臣室で、他の5つの自治体の皆さんと、石井国土交通大臣から住民サービス部門のモデル「道の駅」の認定証を授与されました。これから、知恵を絞り、モデル「道の駅」に恥じない取組みを、オリーブ公園でしていこうと思います。(平成28年12月1日)

「道の駅」オリーブ公園

健康生きがい中核施設の
「サン・オリーブ」

サン・オリーブ内のホールで行われている
温浴教室のようす

音楽、演劇、講演などさまざまな
イベントも行われています

石井国土交通大臣から住民サービス部門の
モデル「道の駅」の認定証をされました

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