せとうち備讃諸島「石の島」ストーリー全文

更新日:2020年03月13日

日本遺産ストーリーは、「1.日本の建築文化を支え続ける石」「2.石切の歴史」「3.石の産地を支えた開運」「4.石と共に生きる 生活文化」の4項目から構成されています。

1.日本の建築文化を支え続ける石

日本の近代化が進んだ明治後期から昭和初期にかけて、国家事業として建設された日本銀行本店本館をはじめ、三井本館、明治生命館などの日本を代表する近代洋風建築が建てられたが、そこには瀬戸内海の島々、とりわけ岡山県と香川県の間に展開する備讃諸島で産まれた花崗岩が使われてきた。
一方で、我が国が世界に誇る石造建造物である、近世城郭の石垣。その技術的頂点とも言われるのが、大坂城の石垣である。大坂城は、徳川幕府が西国・北国の大名63藩64家を大動員して、元和6年(1620)から寛永6年(1629)の間に再建した。大名たちは競うように巨大な石を運び込み、最高・最多量といわれる壮大な石垣を築き上げた。この石垣にも、遠く離れた備讃諸島から運ばれてきた石材が大量に使われている。これらの日本を象徴する歴史的建造物は、備讃諸島の石なくして語ることはできない。

大坂城の石垣と櫓

大坂城石垣

日本銀行本店の建物

日本銀行本店

東京駅の建物

東京駅

2.石切りの歴史

原産地となった瀬戸内の備讃諸島は、小豆島、塩飽諸島、笠岡諸島などを含んでおり、その名のとおり大小無数の島々が本州と四国の間に展開して、典型的な多島海景観を見せている。
島には平地が少なく、山肌から海岸まで、至るところに花崗岩などの巨石がむき出しとなっている。このような特性を活かして、江戸時代以降、良質の石が切り出され、建造物に使われるようになっていった。
 

丁場跡にいくつもの残石がごろごろと置かれている

天狗岩丁場の刻印広場【小豆島町】

その400年の歴史が凝縮されているのが、丁場と呼ばれる石切場である。石に鉄製の矢(クサビ)を打ち込み、割りとることを「切る」という。大きな石を切るためには、石の目を読む高度な技術と、 そのための道具が必要である。
小豆島に残る江戸時代の大坂城石垣の丁場跡では、直径2~3メートル、あるいはそれ以上の大きさの割石が、山肌に沿ってあたり一面に転がっている。

その様は、大名たちによるダイナミックな石切りの様子 を如実に物語っており、連続して矢(クサビ)を打ち込んだ痕や、採石した者の証となる刻印から、当時の技術をうかがい知ることができる。巨石を切り出す技術者達の来島によって、豊富な花崗岩を使いこなす文化が島に生まれた。

塩飽本島では、木烏神社鳥居や島の統治者「年寄」の墓などの大形石造物が、この頃から造られるようになった。 明治以降、花崗岩の採石は地場産業として確立されていった。そんな中、笠岡諸島の北木島から切り 出された「北木石」と呼ばれる花崗岩は東京をはじめ、全国各地の近代建築に使われてきた。北木石を使った重要文化財建造物は、先述の3棟に加えて、横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)、大阪府立中之島図書館、日本橋、東京駅丸ノ内本屋、三越日本橋本店など、枚挙にいとまが無い。

石が切り出された丁場

石切りの渓谷展望台【笠岡市北木島】

1950 年代の機械化によって、あたかも「山を切る」ような採石が可能となってからも、石工たちは 良質の石を追い求め、下へ下へと深く切り進んでいった。その結果、まるで天空にそびえ立つ断崖絶壁 のような丁場が誕生した。明治25年(1892)に始まり現在でも石を切り続ける丁場は、ついに高さ100mの峡谷となって、そこに立つ者の足をすくませる。 これら備讃諸島の島々を巡ることによって、400 年にわたる採石技術の変遷を見聞きし、体感することができる。

3.石の産地を支えた海運

醤油蔵の前に重しとして使われていた石が並べておいてある

醤油蔵と石道具の街並み【小豆島町】

一見、海によって本土から隔離した島々で、これほどまでに採石が発展したのはなぜか。 それは、海があったからである。島々は海によってつながっていた。海こそが、巨大な石を遠隔地まで運ぶために不可欠な「道」だったのである。
西日本における海上交通の大動脈でもあった瀬戸内海の島々には、海の「道」港町が形成された。切った巨石を積み出すための産業港は、自然の地形を利用した入り江を物流の拠点にした。小さな積み出し港には大小の端材を巧みに組み上げた護岸が遺っている。物流施設として、花崗岩を積み上げた石壁の倉庫が、原産地ならではの佇まいを見せ、醤油蔵の前には、醤油しぼりに欠かせない地元石材の重石 がずらりと並べられている。
 

伝統的な建物がならぶ集落の路地を女性が自転車で通る

笠島集落【丸亀市本島】

江戸時代、巨石の運搬に塩飽の民が携わったことが知られているが、100トンを超える石を運んだその海運力と優れた操船技術は中世の塩飽水軍にさかのぼる。塩飽諸島は、中世には塩飽水軍、江戸時代には塩飽廻船の根拠地でもあり、幕末、咸臨丸の乗組員を多数輩出する船乗りたちの聖地であった。
備讃瀬戸の島々では、街路が屈曲し、十字路を形成しない複雑な町割りを残した集落が見られるが、塩飽の中枢となる本島の笠島地区では、山城のある丘陵に三方を囲まれつつ、狭い道路が複雑に食い違い、見通しがきかない防衛的な構造を示す一方、マッチョ通り(町通り)と呼ばれる主要道路に沿って町屋形式の家屋が建ち並ぶ伝統的な集落が、海の民の経済力を物語っている。

集落内の石垣のある路地の向こうに三重の塔がみえる

迷路のまち【土庄町】


笠岡諸島の真鍋島では、塩飽水軍と並び立つ中世真鍋水軍の拠点にふさわしく、山城のふもとに防衛的な町割りの集落が展開する。また小豆島の土庄集落は「迷路のまち」と呼ばれるだけあって、地図がなければ方角を見失ってしまいそうになる。備讃瀬戸の島は、はげ山、岩場、砂浜など変化に富み、花崗岩の地質が露出し景観を形成している。島の中で山と海が一体となりコンパクトにまとまっていることが、石切りと石の陸運、海運を容易ならしめたのである。

4.石と共に生きる 生活文化

備讃諸島の島民は太古の時代より、島に点在する大きな石と共に生きてきた。富と豊かさをもたらす山の巨石は島民の精神文化と結びつき、崇拝と祈りの対象となってきた。また、岩肌をくり抜いた山岳霊場などには、おかげにあやかろうとその地を訪れる人が後をたたない。
最盛期、島は石切りから加工、商い、出荷、海運まで石材産業が島内で完結した産業都市として賑わった。特筆すべきは、石の営みを支える石工たちの生活文化であろう。島の石材産業は富を生み、営みは文化と娯楽を島に遺した。民家の中につくられた学校の小講堂のような映画館が、昭和期、石工の娯楽のために映画を上映した昔日の賑わいを物語る。
石工たちの労働歌である石切唄、それを踊りとして継承する石節、ハレの日に石工にふるまったという伝統の石切り寿司など、産業を支え力強く生きた石工たちの希有な伝統文化が今も日々の暮らしに息づいている。
さあ、「船」という入口を通って、「島」という非日常の世界へ出かけて行こう。瀬戸内式気候特有の青空と、ゆったりと過ごす時間、海を感じながら石の文化に触れる旅が、あなたを待っている。
 

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商工観光課
〒761-4492
香川県小豆郡小豆島町片城甲44番地95
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